漢詩徒然草(47)「胡蝶之夢」

平兮 明鏡
2025/5/1

胡蝶翩翩春夢蹤 胡蝶 翩々 春夢の蹤
覺來尚訝艷陽穹 覚め来りて 尚訝る 艶陽の穹
櫻花不惜落花事 桜花は惜しまず 落花の事
安厭高飛殘夢中 安くんぞ厭わん 高飛 残夢の中

胡蝶 … 蝶
翩翩 … ひらひらと舞うさま
艷陽 … 華やかな晩春の季節
安 … 安くんぞ。どうして~だろうか(反語)
殘夢 … 目が覚めてもなお残る夢


最近、はっきりとした夢を見たことがありますか?
しかも、抜き差しならない切迫した状況の夢を。

私はつい最近、どこかに捕まってしまい、その場所から逃げ出そうとする夢を見ました。どういう理由で、誰に、どこに捕まったのか、というようなことはさっぱりわからないのですが、とにかく鮮明で真に迫るような夢でした。

夢の中では、命の危険が差し迫っているわけですから、どうやって監視の眼を盗むか思案したり、脱出するために車を盗んだりと、それはもう、あらゆる手段を講じて必死になって逃げていました。

その夢は、ただそれだけの話で、夢らしく特にオチなどはなかったのですが、目が覚めて思ったことは「夢なら、あんなに必死になることもなかったな……」ということでした。

冷静に考えてみると、その内容は突拍子もないもので、とてもリアルとは言えないものだったので、そう感じたのでしょうが、しかし一方で、まだ必死になって逃げていた感覚も自分の中に確かに残っていて、「いや、夢の中ではそれこそ、それが現実だったのだ。今、目が覚めてから、その是非を言うのはおかしい」と思い直しました。

もしかすると、反対に夢の中の自分は、現実こそ、そんなに必死になる必要はないと考えるかもしれません。この夢とは違い、現実の自分は少なくとも命の危険などには晒されていないのですから。

夢の中の自分は夢の世界にいて、現実の自分は依然、現実世界にいます。


「胡蝶の夢」(*註)という話を知っていますか?

古代中国の戦国時代の思想家、荘子《そうし》(荘周)の著書『荘子《そうじ》』の中に出てくる説話です。

荘周はある日、自分が蝶になって遊んでいる夢を見ます。その夢の中では、荘周は自分が荘周だとは思っておらず、自由にあちこちを心ゆくまで飛び回っていました。そして目が覚めると、布団の中にいて自分が荘周であることに気が付きます。そこで、ふと疑問が湧き起こります。

「人間である荘周が夢の中で蝶となっていたのか?
 それとも、蝶である自分が今、荘周となった夢を見ているのか?」


ということで、この説話は夢と現実とが区別出来ないものであるという喩《たと》えであり、また、私たちの意識が、その区別を生んでいるに過ぎないのではないか、という問題提起でもあります。

私たちは常識で、夢は夢、現実は現実と区別していますが、冒頭のお話のようにいざ夢の世界に放り込まれると、それが夢か現実かはわかりません。目が覚めたあとならわかりますが、では、目が覚めたあとの方も夢だとしたらどうなるのでしょうか? そう考えると、今、自分がいる世界が、夢か現実かは永久にわからないことになります。

近年はVRヘッドセットやメタバースなど、ヴァーチャル・リアリティの技術が誕生し、「この世界は、はたして現実なのか?」というテーマのSF作品もよく見かけるようになりましたが、『荘子』は実に2300年前に同じような疑問を提示していたのです。


胡蝶翩翩春夢蹤 胡蝶 翩々 春夢の蹤

蝶々がひらひらと楽しげに舞う春の夢。しかし、その夢も夜明けとともに終わりを迎えます。

覺來尚訝艷陽穹 覚め来りて 尚訝る 艶陽の穹

目が覚めて眺める麗らかな青空。陽気に満ちた晩春の現実が、確かにそこにはあるのですが、それでも先ほどの夢は本当に夢だったのかと疑わしく思えます。それほど、それは鮮明に記憶に残っているのです。

櫻花不惜落花事 桜花は惜しまず 落花の事

ふと庭先を見やると、新緑の色を湛《たた》える葉桜が春の風にそよいでいます。今ではとうに散り尽くしてしまいましたが、少し前までは、その枝が撓《たわ》みしなうほど、満開の花をその木は見せてくれていました。

思えば、桜の花は風に吹かれ地に落ちる宿命だったとしても、そのことを惜しみ咲くことをためらったりはしません。その一時一時に、自由に、そして心ゆくまで咲き誇るのみです。

安厭高飛殘夢中 安くんぞ厭わん 高飛 残夢の中

そうだとするならば、どうしてここが夢か現実かを問う必要があるでしょうか。たとえ夢から覚めたとしても、なお残るこの夢の続きで精一杯、生きてゆくだけのことです。


「胡蝶の夢」は、夢と現実とが区別できないことの喩えですが、そこから転じて、人生は儚いという意味にも用いられるようになりました。しかし、原典の『荘子』に於いてもその真意は真逆のものです。(ここでは、その思想についてはあえて触れませんが。【Wikipedia「胡蝶の夢」】)

曖昧な夢と現実との間《はざま》――その先にあるものは、夢と現実との区別をも超えた人としての生き様です。

「夢」という言葉が含む大きな意味の一つは、いずれ終わりが来るということです。人生にも、どうしようもなく終わってしまう夢があります。しかし、たとえそうだったとしても、夢が夢だったとしても、人はいつだって、どこでだって自由に精一杯、生き切ることが出来るはずです。

そんな生き方が出来たとき、その夢の終わりにも、私たちはきっと「楽しかった!」と胸を張って言えることでしょう。


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胡蝶翩翩春夢蹤 胡蝶 翩々 春夢の蹤
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覺來尚訝艷陽穹 覚め来りて 尚訝る 艶陽の穹
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櫻花不惜落花事 桜花は惜しまず 落花の事
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安厭高飛殘夢中 安くんぞ厭わん 高飛 残夢の中

仄起式、「蹤」「穹」「中」上平声・一東、二冬の通韻です。




(*註)「胡蝶の夢」
 

昔者、莊周、夢爲胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與、不知周也、俄然覺、則蘧蘧然周也、不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與、周與胡蝶、則必有分矣、此之謂物化。

昔者《むかし》、荘周、夢に胡蝶と為る。栩々然《くくぜん》として胡蝶なり。自ら喩《たの》しみて志《こころ》に適うか、周なることを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然《きょきょぜん》として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分あらん。此をこれ物化と謂う。


『荘子 第一冊 内篇』 (金谷治 訳注 岩波文庫)




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