漢詩徒然草(45)「楠木正成」


國賊皇軍又藎臣 国賊 皇軍 又 藎臣
毎遷時勢轉其身 時勢を遷す毎に 其の身を転ず
特攻旗記七生字 特攻の旗は記す 七生の字
何若楠公鬼也神 何若ぞ 楠公 鬼か神か
時勢 … 時代の成り行き
藎臣 … 忠臣
七生 … 七度、生まれ変わること。後述
楠公 … 楠木正成公
今回の詩は楠木正成の詩になります。しかし、漢詩は自らの感動を詠むものですので、単に楠木正成の生涯を記述したのでは詩にはなりません。それではただの史実の羅列です。楠木正成の詩は、楠木正成の生涯を述べるものはなく、楠木正成の生涯に対して自分がどう感じたかを述べるものなのです。
とはいえ、前提となる歴史を知らなくては話が進みませんので、まずは楠木正成の生涯について、ごくごく簡単にお話しましょう。
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将で、はじめは鎌倉幕府に仕えていましたが、後醍醐天皇の討幕計画に呼応して挙兵します。
初戦、天皇側は敗れ正成も敗走しますが、よく戦い抜き戦果を上げ、最後には足利尊氏、新田義貞らとともについに幕府打倒を果たします。
後醍醐天皇が建武の新政を敷くと、正成はその勲功により多くの所領や役職を与えられますが、間もなく尊氏が反旗を翻し兵を起こします。正成は義貞とともに鎮圧に向かい、一度は九州まで足利軍を追い込みますが、軍を立て直した尊氏の反攻に遭い、逆に中央へと攻め込まれます。
正成らは、尊氏の大軍を湊川《みなとがわ》(現・神戸市)に迎え撃ちますが敗退し、弟・正季《まさすえ》らとともにその地で自刃しました。義貞も討たれ、ここに足利軍が勝利し、室町幕府が開かれ南北朝の時代となります。
楠木正成の生涯はここで終わりですが、その物語はまだ終わりではありません。その死を迎えてなお、正成の物語は続きます。後世への影響を考えると、物語はむしろここからが本番と言えるかもしれません。
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側の正成は朝敵となります。しかし、時代が進むにつれて、その正成像が変化していきます。その生涯から、次第に忠義の士として認知されるようになり、軍記物語『太平記』(南北朝時代)では稀代の名軍師として描かれます。
江戸時代になると、その忠節から特に儒学者の中で評価され、全国各地に神として祀られるようになります。また、無念の死を遂げたことから、怨霊として物語に登場することもありました。菅原道真の例を見るように、古来の日本人の宗教観では、偉人の怨霊と神は表裏一体なのです。
これが明治維新には、尊王思想に繋がっていきます。明治政府としては、南朝が正統である必要があったため、正成は「大楠公《だいなんこう》」と奉《たてまつ》られ、日本人の鑑として学校教育にも頻繁に用いられるようになりました。
『太平記』の湊川の戦いでの最期の場面、弟の正季との会話では、正季の「七度生まれ変わっても、朝敵を討ち滅ぼしたい」という言葉に同意し、これが明治以降、国への忠誠を示す「七生報国《しちしょうほうこく》」という言葉になりました。
戦後は、戦前の価値観を否定する傾向から、逆に正成は遠ざけられるようになり、この「七生報国」などは、特に戦時中に意識高揚のために利用された標語として認識されるようになります。明治以後の評価からまた一変したと言えるでしょう。
國賊皇軍又藎臣 国賊 皇軍 又 藎臣
毎遷時勢轉其身 時勢を遷す毎に 其の身を転ず
国賊となり、皇軍となり、今度はまた忠臣となる。死してなお政権や時勢が移るたびに、その身を転じてゆく。
特攻旗記七生字 特攻の旗は記す 七生の字
何若楠公鬼也神 何若ぞ 楠公 鬼か神か
特別攻撃隊の旗に記された「七生報国」の四文字。大楠公は、はたして鬼なのか? それとも神なのか?
時代によって、その時の為政者によって、さまざまにその姿を変えてきた楠木正成。可能な限り正確を期するのは歴史学者の本分です。歴史上の評価は歴史家に任せるとして、ここは詩の世界なのですから、鬼か神かはそれぞれの詩情に委ねられることでしょう。
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國賊皇軍又藎臣 国賊 皇軍 又 藎臣
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毎遷時勢轉其身 時勢を遷す毎に 其の身を転ず
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特攻旗記七生字 特攻の旗は記す 七生の字
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何若楠公鬼也神 何若ぞ 楠公 鬼か神か
仄起式、「臣」「身」「神」上平声・十一真の押韻です。
「皇軍」「特攻」「(七生報国としての)七生」は和習ですが、今回のテーマを伝えるには省くことができないところなので、ここでは許容しています。
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