漢詩徒然草(44)「探春」

平兮 明鏡
2025/2/8

踏破杖藜靄 踏み破る 杖藜の靄
歸來家舍枝 帰り来る 家舎の枝
知無可開處 開くべき処の無きを知らば
花自四時披 花は自ずから四時に披く

杖藜 … 藜《あかざ》を杖つく

    藜はアカザ科の草本で、その茎は杖に使われる

四時 … 四季、一年中


今回の詩は少し特殊です。というのも、これはある古人の詩を読んで、その詩に対する感想を詠んだものだからです。ですので、上の詩だけを読んでも意味はわかりません。

詩題の「探春」は、「春を探る」と読めますが、実はこの「探春」こそが、もとの詩の題になります。よって、この詩題は「探春」という詩を読んで、その感想を詠んだもの、という意味も含んでいます。

それでは、まずは、もとの詩である「探春」の方を見ていきましょう。


「探春」戴益《たいえき》

盡日尋春不見春 尽日 春を尋ねて 春を見ず
杖藜踏破幾重雲 杖藜《じょうれい》 踏み破る 幾重《いくちょう》の雲
歸來試把梅梢見 帰り来《きた》りて 試みに梅梢《ばいしょう》を把《と》って見れば
春在枝頭已十分 春は枝頭に在りて 已に十分

盡日 … 終日、一日中
枝頭 … 枝の先

一日中、春を探して歩き回ったのに、見つけ出せない。
このアカザの杖で、高く重なる雲を踏み破るほど、山々を巡ったというのに。
疲れ果てて家に帰って来て、ふと庭の梅の枝を取って見てみると、
春は、その枝の先にあって已に十分だった。



詩の意味はわかりやすく、翻訳も不要なほどではないでしょうか? 話の展開も、最後のオチがとても面白く、物語性が高いものになっています。

盡日尋春不見春 尽日 春を尋ねて 春を見ず
杖藜踏破幾重雲 杖藜 踏み破る 幾重の雲

春の訪れほど待ち遠しいものはありません。つらい冬の季節が長ければ、なおのことです。これは、いつの時代、どの国であっても変わることはないでしょう。作者の戴益は北宋の人物と言われていますが、詳細はよくわかっていません。しかし、その気持ちは現代の私たちでも、よくわかる気がします。

その日は、雪融《ど》けもまだの寒い時期だったのかもしれません。それでも、もしやと思い、作者は一つ春を探しに杖を手に取って寒空の下、山野へと踏み出していきました。

しかし、いくら山々を渡り歩いても、春らしい景色を見つけることはできません。その杖で「踏み破った」のが、山道でなく「幾重の雲」というところに、その苦労と無念が伝わります。作者は、仕方なくトボトボと家路につきます。ところが……、

歸來試把梅梢見 帰り来りて 試みに梅梢を把って見れば
春在枝頭已十分 春は枝頭に在りて 已に十分

あれだけ探し求めていた春は、はじめから自分の家にありました。梅の花が二三、咲いていたのか、あるいは、まだ蕾であったのかはわかりませんが、作者は、そこに十分の春を感じ取ったのでした。

山野を歩き回ったことは、徒労だったと言ってもよいかもしれませんが、それでもやはり、この「春は枝頭に在りて 已に十分」という一句には、嬉しさの方が、より勝っていたように感じられます。


日常、探しものが見つからず、散々探し回った挙げ句、自分のポケットの中にあった……ということもあるのではないでしょうか。戴益が探していたものは「春」だったわけですが、この物語が実は人生のことを言っているとするなら、なかなか深みのある話だということに気付きます。

人生もまた、探しものを求める旅路です。その探しものとは、「夢」と言ったり、「願い」と言ったり、また「幸せ」と言ったりもするのでしょう。戴益がそうであったように、長い間、探し続けたり、いくつもの困難を乗り越えてゆくことになるかもしれません。

しかし、そのようにして、いろんな場所を探し求めてみても結局、探しものが見つかることはありませんでした。なぜなら、それははじめから自分の中にしかないものだったからです。

物語の最後に帰って来た「家」とはどこなのか?――これは単に家屋としての家などではなく「わが家」のことです。わが家とは、帰るべきところ、拠《よ》りどころであり、また、本来の自分自身でもあります。

本当に大切なものは自分の外ではなく自分の中にある、というのは、劇作家、モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』を連想させます。そんな人生訓とも言える奥深い詩情から、この「探春」は、古くから愛唱されてきました。


さて、それでは、ここからは私の詩情です。

踏破杖藜靄 踏み破る 杖藜の靄
歸來家舍枝 帰り来る 家舎の枝

戴益は外に春を探し回ってみても、結局、それを見つけることはできませんでした。そして、わが家に帰ってきて、はじめて見つけることができたわけですが、それでは山野を探し回っていたときには、本当にそこには春はなかったのでしょうか?

――否、どこか別のところに春がある、という思い込みさえなければ、春はどこにだって存在しています。

知無可開處 開くべき処の無きを知らば
花自四時披 花は自ずから四時に披く

求めているものを求めている時点で、それはすでに自分の中にあります。「探春」の道がそうであったように、道は不確かですが、だからこそ、自分の中にある願いだけは確かにそこに存在しています。

おそらく、春を探し回っている最中はつらくもありますが、一方で楽しくて仕方なかったのではないでしょうか? それは、他でもない自身の大切な願いとともにあった時間なのですから。右往左往し、探し求めた時間はきっと無駄ではなかったはずです。

探しものは、常に心の中に在り続けます。私たちが、その願いを失わない限りは――。


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踏破杖藜靄 踏み破る 杖藜の靄
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歸來家舍枝 帰り来る 家舎の枝
○○●○●
知無可開處 開くべき処の無きを知らば
○●●○◎
花自四時披 花は自ずから四時に披く

五言絶句、仄起式、「枝」「披」上平声・四支の押韻です。

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