漢詩徒然草(42)「圍碁(1)」
爐火覺烽火 炉火 烽火かと覚え
松聲疑戰聲 松声 戦声かと疑う
啜茶廻計略 茶を啜り 計略を廻らし
把扇出長征 扇を把り 長征に出づ
堅守風雲陣 堅守す 風雲の陣
俄攻要衝城 俄に攻む 要衝の城
白兵驚電走 白兵 驚電走り
黑馬大軍行 黒馬 大軍行
塞外千畦野 塞外 千畦の野
橘中方寸程 橘中 方寸の程
靜心敲一子 静心 一子を敲けば
小石化瑤瓊 小石 瑶瓊と化す
爐火 … 囲炉裏《いろり》の火
烽火 … 狼煙《のろし》
松聲 … 松風の音。ここでは茶釜が煮える音
戰聲 … いくさ、戦場の声
長征 … 遠征。遠方に出征すること
白兵 … 白刃。それを使う兵士
驚電 … 激しい雷
塞外 … 砦の外
千畦 … 広大な面積
橘中 … 橘《たちばな》の実の中。
橘の実を割ると中で仙人が碁を打っていたという故事による
方寸 … 1寸四方。1寸は約3cm
子 … 碁石
瑤瓊 … 美しい宝玉
今回は、詩題のとおり「囲碁」の詩を詠んでみました。盤上で行うゲームを題材にするのは、珍しいと思うかもしれませんが、実は漢詩では古来、親しまれてきた題材で、詩語集でもその項目があります。
とはいえ、詩を作る上では専門的な題材であることには違いありません。その表現には、専門用語を多く使うことが余儀なくされます。
例えば「碁石を打つ」というシーンは、どう表現したらよいでしょうか? これは作中にあるように「敲子(子を敲く)」や「下子(子を下《くだ》す)」「落子(子を落とす)」といいます。これを知るには、詩語集とにらめっこするか、古人の詩集を精査するしかありません。
また「碁」は漢語としては、少々厄介な単語です。一般に「ゴ」と呼び慣わしていますが、これは慣用読みで、本来の漢字にはない読み方が定着してしまったものです。本来は「棋(棊)」と同じく「キ」と読むのですが、日本では「圍碁(囲碁)」で定着していますので、ここではあえて囲碁《いご》や碁《ご》と記述します。
爐火覺烽火 炉火 烽火かと覚え
松聲疑戰聲 松声 戦声かと疑う
静かな一室にパチンと碁石の音が響きます。ここでは、茶を煎るための囲炉裏の火は狼煙の火、グツグツと煮えたぎる茶釜の声はいくさ場の声です。今、戦いの火蓋が切られました。
啜茶廻計略 茶を啜り 計略を廻らし
把扇出長征 扇を把り 長征に出づ
茶を啜りながら、敵軍を出し抜く深謀遠慮の計略を廻らし、そこにあった団扇《うちわ》を取っては、大昔の大軍師の面持ちで遠征に赴きます。
堅守風雲陣 堅守す 風雲の陣
俄攻要衝城 俄に攻む 要衝の城
そうして、いざ刃を交えると、思いはもはや百戦錬磨の大将軍です。敵の襲来には、古今の変幻自在の陣形で守り抜き、たちまち攻勢に転じては、要害の城へと強襲します。
白兵驚電走 白兵 驚電走り
黑馬大軍行 黒馬 大軍行
まさに白兵の部隊は、電光石火のはたらきを見せ、黒馬の大軍は激震を以て大地を轟かせます。
塞外千畦野 塞外 千畦の野
橘中方寸程 橘中 方寸の程
城塞の外へ出陣し、広大無辺の平原へと打って出たとしても、そんな夢想の戦場から一転、現実の盤上に戻っていみると、それは、かの仙人たちが碁を打っていたという、わずか柑橘《かんきつ》の実の中での距離にしか過ぎません。
靜心敲一子 静心 一子を敲けば
小石化瑤瓊 小石 瑶瓊と化す
空想と現実の交差する盤上に、それでも明鏡止水の一手を打てば、その小さな碁石は他の布石と共鳴して宝玉の輝きを放つのです。
さて、実をいうと作者は囲碁を嗜みません。なんとなく、イメージでルールは知っていますが、実際に打つことはできません。では、なぜ今回、囲碁の詩を作ろうかと思い立ったかというと、私の教室の生徒さんが碁が好きで、何度も囲碁を詩を送ってきて、それに触発されたからです。
あまり碁を知らない私が、碁のどんなところに詩情を動かされたかというと、それは、そのシンプルにして独特なゲーム性でした。
石を交互に並べていき、石で囲んだ面積を競い合う。そんなシンプルなルールの上で、陣取り合戦を再現するとは驚きです。そして、そのゲーム性は、戦術レベルではなく戦略レベルでの戦争を連想させます。
わずか四十数cm四方の碁盤の上にある大戦略。私の詩のテーマは空想と現実のギャップに決定しました。空想とは、血煙舞う城塞と軍馬駆ける大平原。現実とは、茶を沸かす一室にある碁盤を囲む2人の人物です。そんな2つの世界が同時に存在する空間が、なんとも面白く思いました。
前半は、お茶や団扇といった日常の道具を配置しつつも、次第にその境界が曖昧になり、囲碁の世界へと入り込んでいきます。中盤では、完全に空想の世界に没入してしまいますが、最後には碁石を打つ描写で、また現実世界へと戻ってきます。
囲碁を打たない私が作る囲碁の詩は、それ自体が空想と言えるかもしれませんが、私が感じたその不思議な空間を表現できたらいいなと思い作ってみました。次回は、この詩を作るきっかりになった、生徒さんの囲碁の詩を紹介したいと思います。
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爐火覺烽火 炉火 烽火かと覚え
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松聲疑戰聲 松声 戦声かと疑う
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啜茶廻計略 茶を啜り 計略を廻らし
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把扇出長征 扇を把り 長征に出づ
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堅守風雲陣 堅守す 風雲の陣
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俄攻要衝城 俄に攻む 要衝の城
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白兵驚電走 白兵 驚電走り
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黑馬大軍行 黒馬 大軍行
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塞外千畦野 塞外 千畦の野
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橘中方寸程 橘中 方寸の程
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靜心敲一子 静心 一子を敲けば
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小石化瑤瓊 小石 瑶瓊と化す
五言排律、仄起式、「聲」「征」「城」「行」「程」「瓊」下平声・八庚の押韻です。
排律
「律詩」は、ざっくりと言うと「絶句が2つ続いた形の八行詩で、その中間部分の一対二句のセット(聯)2つ分が対句になったもの」となりますが(詳しくは「初めての人のための漢詩講座 28」をご覧ください)、その対句部分がさらに増えたものが「排律《はいりつ》」です。
言葉で説明してもわかりにくいので、図示してみましょう。律詩や排律には、五言と七言がありますが、ここでは五言で示します。
平起式の五言律詩の平仄式はこのようになります。
(「*」の平仄は、どちらでもよい)
*○○●●
*●●○◎
*●*○●┬対句
*○*●◎┘
*○○●●┬対句
*●●○◎┘
*●*○●
*○*●◎
この間に、さらに対句を2つ(四句分)足します。
*○○●●
*●●○◎
*●*○●┬対句
*○*●◎┘
*○○●●┬対句
*●●○◎┘
*●*○●┬対句
*○*●◎┘
*○○●●┬対句
*●●○◎┘
*●*○●
*○*●◎
これが五言排律(平起式)です。今回の詩は仄起式ですが、同じような形になっているのがわかると思います。
上記の図は、4句を足したものですが、排律はこの対句部分をいくら足しても構いません。さらに4句を足してみましょう。
*○○●●
*●●○◎
*●*○●┬対句
*○*●◎┘
*○○●●┬対句
*●●○◎┘
*●*○●┬対句
*○*●◎┘
*○○●●┬対句
*●●○◎┘
*●*○●┬対句
*○*●◎┘
*○○●●┬対句
*●●○◎┘
*●*○●
*○*●◎
このように排律は、絶句が複数回並んでいる、4の倍数の句数になっているものが多いですが、10句や14句の詩などのように、そうでないものもあります。
ただでさえ規則の厳しい律詩をさらに長くした排律は、作るのにはかなり熟練を要しますが、古人の排律は何十句にもわたるものも少なくありません。初学者は律詩を作るのすら困難であるのに、このような詩型があるとは、まったく漢詩の世界は常軌を逸していると思います。
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