漢詩徒然草(41)「??(2)」

平兮 明鏡
2024/9/1

須臾昇到百層嵩 須臾にして昇り到る 百層の嵩きを
恰覺虛空倒墜中 恰かも覚ゆ 虚空 倒に墜つる中かと
千里餘光何處在 千里の余光 何れの処にか在る
今人不識季陵瞳 今人 識らず 季陵の瞳

須臾 … ごくわずかの時間、しばらくの間
百層 … 100階
餘光 … 日没のあとにまだ残っている日の光
季陵 … 王之渙《おうしかん》。盛唐の詩人


今回も前回のように、詩題を伏せてクイズ形式で、詩の内容のみで「この詩は何のことを言っているのか?」を読み解いてもらいましょう。これは、作詩をする上で重要な「詩として成り立たせる最低限の内容は、詩の中でのみ完結させるべき」ということを、もう一度考えてもらいたいからです。

須臾昇到百層嵩 須臾にして昇り到る 百層の嵩きを
恰覺虛空倒墜中 恰かも覚ゆ 虚空 倒に墜つる中かと

「それ」は一瞬にして100階建ての高さのてっぺんまで上り切り、まるで空間を「真逆に」落ちているかのように錯覚します。

千里餘光何處在 千里の余光 何れの処にか在る
今人不識季陵瞳 今人 識らず 季陵の瞳

このありさまでは、遥かな暮景に感動して、さらにもう一層を登ったかの王之渙の詩情などは一体どこにあるのでしょうか? 今の人は、もはや古人の望んだ光景を知ることができないのかもしれません。

「それ」が何だかわかったでしょうか?


転結句は、見ての通り王之渙の「登鸛鵲樓(鸛鵲楼に登る)」漢詩講座16】を題材にしています。

昔は当然、100階建ての建物も、その上まで一瞬で到達する手段もありませんでした。だからこそ、それでも自分の足でもう一層を登ろうした王之渙の心情は、考えさせられるものがあります。

以前に仙人にたとえられる李白も飛行機からの光景は見たことがなかっただろう、という詩を作りました【漢詩徒然草(19)「飛行機」】。現代人しか見ることもできない光景もあれば、昔の人しか知り得ない詩情もあります。「それ」があっては、もはや、風景を見るためにもう一層を登ろうという心境は決して生まれてこないでしょう。

さて、それでは伏せていた詩題ですが……これは、もともと「電梯」と題していました。もうおわかりだと思いますが、これはエレベーターの中国語です。「電気の梯子《はしご》」とは、なるほどと思ってしまいますが、しかし、やはり梯子と言うには、あまりにもスピード感があるイメージです。
 

絶句という形式

七言絶句や五言絶句は、限られた文字数で自分の言いたいことを表現しなければなりません。短歌や俳句も漢詩以上に文字数の制限がありますが、文字数が少ないということは、その表現できる内容にも限界があるということです。

逆にいうと、作詩の過程で、言いたいことを極限まで切り詰め、詩情のコアとなるものを削り出す作業が必要になります。この余計なものを一切省いたソリッドな率直さに、これらの文学の真髄があるのかもしれません。

それでは、それらはどのように削ぎ落としてゆけばよいのでしょうか?
 

詩題に詩の内容を含めてしまってよいか?

詩題とは、文字どおり詩の題名のことですが、先ほど述べた文字数の制限のことを踏まえると、

「詩の内容の一部を詩題で述べてしまってよいか?」
「詩の内容の補足を詩題で述べてしまってよいか?」

という考えに行き当たります。

例えば、その詩を詠もうとしたときの状況や背景など、そのすべてを五言絶句20文字や七言絶句28文字の中で述べるのは到底不可能です。だから「そこで述べることができなかった情報は、詩題の中に含めてしまおう」というわけです。

特に和習を考えた場合、人名、地名など固有名詞は、代替の言葉や表現もありません。よって、それを読み手に理解してもらうには、直接その言葉を用いざるを得ず、それは多くの場合、詩文中に入れることは困難で、詩題や註釈に含めるしかありません。

そのような内容の詩を、絶句という形式で表現しようとすること自体を避けるべきだと言われるかもしれませんが、それでは詩の内容によって詠むことができない詩があることになってしまいます。そのようなことで、詩が詠めなくなるなら、そんな馬鹿らしいことはありません。創作は本来、自由であるべきです。
 

題名は作品の一部か?

そもそも詩題は作品の一部なのでしょうか?

便宜的にそれを指し示すものとしては、題はもちろん必要なものですが、文学的、芸術的に考えると、純粋に「その作品の一部になっているのか?」ということには疑問が残ります。絵画などのビジュアルな芸術作品は、そのタイトルを見る機会が与えられていなかったとしても、鑑賞することはできるように思えます。

仮に漢詩もそうだとすると、詩文本体と詩題を切り離しても作品として成り立つ、ということになります。つまり、背景の情報が明かされなかったとしても、独立して詩として楽しむことができる、ということです。

そう考えると、自評の指標の一つとして「詩題を伏せても、おおよその内容がちゃんと伝わるか?」という方法が考えられます。前回と今回、詩題を伏せた状態で話を進めたのも、ここに思い至ったからです。

今回、取り上げた「登鸛鵲樓(鸛鵲楼に登る)」も、詩題がないと登った楼閣が鸛鵲楼であることも、その望んだ光景が山西省永済県の平原であることもわかりません。だからといって、この詩が絶唱であることは疑いようはなく、詩題を伏せて読んだとしても、読者に多くの感動を与えることでしょう。
 

詩としての最低限の内容は詩の中で成立させるべき

実際、漢詩の題は説明的なものや便宜的なものが多いです。今まで取り上げた名句の詩題を取り上げてみましょう。

「聞白樂天左降江州司馬」(白楽天が江州司馬に左降せらるるを聞く)」漢詩講座7
「題不識庵撃機山圖(不識庵、機山を撃つの図に題す)」漢詩講座8
「送元二使安西(元二《げんじ》の安西《あんせい》に使いするを送る)」漢詩講座15
「黃鶴樓送孟浩然之廣陵(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之《ゆ》くを送る)」漢詩徒然草(19)「飛行機」
「春夜宴桃李園序(春夜、桃李園に宴《えん》するの序)」漢詩徒然草(20)「客路」

説明的というよりも、あまりにもそのままで、詩的な情緒は感じられません。この点は、漢詩の世界はスッパリと割り切っている感があります。ただし、言うまでもなく、これらはその詩題を伏せたとしても、心に強く訴えてくる古今の名作たちです。

文字数に厳しい制限のある絶句では、詩題や註など、ある程度は補足というものを認めるべきでしょう。ただし、詩として成り立たせる最低限の内容は、やはり詩の中で完結させるべきです。逆にいうと「その詩だけで完結できていない詩=詩の内容だけでは意味のわからない詩」は、避けなければなりません。


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須臾昇到百層嵩 須臾にして昇り到る 百層の嵩きを
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恰覺虛空倒墜中 恰かも覚ゆ 虚空 倒に墜つる中かと
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千里餘光何處在 千里の余光 何れの処にか在る
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今人不識季陵瞳 今人 識らず 季陵の瞳

平起式、「嵩」「中」「瞳」上平声・一東の押韻です。

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