漢詩徒然草(40)「??(1)」
非蝗非蟋蟀 蝗に非ず 蟋蟀に非ず
不掠不愁吟 掠めず 愁吟せず
安閑惟最好 安閑 惟れ最も好し
搗米綠叢陰 米を搗く 緑叢の陰
蝗 … ワタリバッタ
蟋蟀 … コオロギ
綠叢 … 緑の草むら
※動物や植物の名前を表す漢語は、複数の意味があったり、また時代や国によって意味が大きく異なる場合があります。
※今回登場する昆虫のワードを画像検索するときは、そのような画像が苦手の人は注意してください。
今回の詩は、ある動物のことを詠んだ詩なのですが、詩文中には、ご覧のとおり、その動物の名は明記されていません。漢語でその名称を述べても理解されないだろうと思い、思い切ってその名は一切明かさずに作ってみました。
詩を作ったあと、人に見せるという過程を踏むのであれば、当然、読み手が読んで理解できるものでなければなりません。しかし、詩は本来、自分の想いを表現したものなので、それがすべてではないはずです。読み手の理解を優先させるあまり、表現したい詩情そのものを見失ってしまっては本末転倒です。大衆性と芸術性の兼ね合いは、芸術・文学の永遠の課題ではないでしょうか。
今回、この詩を作るにあたって、いろいろと思うところがあったのですが、まずは、その詩の内容を見ていきましょう。
非蝗非蟋蟀 蝗に非ず 蟋蟀に非ず
不掠不愁吟 掠めず 愁吟せず
「蝗」とはイナゴのことを言ったりもしますが、漢語本来の意味はワタリバッタのことです。ワタリバッタは、大量発生して群れを成して作物を食い荒らす蝗害《こうがい》を引き起こします。
そんなワタリバッタでもコオロギでもない、その者は作物の掠奪もしないし、秋口に悲しげに鳴くこともありません。
安閑惟最好 安閑 惟れ最も好し
搗米綠叢陰 米を搗く 緑叢の陰
もの静かに暮らすには、この者のように平凡に生きるのが一番でしょう。今日も緑の草むらの陰で米を搗《つ》いています。「米を搗く」とは、玄米を搗いて糠《ぬか》を取り除いて精米することです。さて、この者とは何者でしょうか?
ワタリバッタでもコオロギでもない、ということはそれに似ている動物だと推察することもできます。承句と転句では、それらの生き方とは対照的であることが示唆され、結句には、それぞれの生き方という今回の詩の着想となったその名の由来が記されています。その動物が何者か(※Wikipedia)、みなさんに伝わったでしょうか?
今回は、そのテーマの正体を明かさずに詩の中のみで、それを表現してみました。クイズのようでしたが、実はこの考え方は詩を作る上でとても重要なことです。というのも、詩を詩として成り立たせる最低限の内容は、詩の中でのみ完結させるべきだからです。
漢詩を作るときは、いくつもの規則を守る必要があったり、述べたいことがらを表す漢語が見つからなかったりするので、自分の言いたいことを表現するには、なかなかに骨が折れます。
よく見られるのが、詩を読んでみてもその内容がよくわからず、作者自身が内容の説明をして、はじめて意味がわかるというものです。これでは、自分でその詩が不完全なものだと証明しているようなものです。
その詩が最低限の詩の形として成り立っているか?を確認するには、自分の中にある、その詩に関する情報をすべて忘れ去って、第三者の目となって意味がわかるかを検証する必要があります。
一度、自分の頭の中、詩題や註釈、すべてをまっ白にして、その詩と向き合ってみてください。詩に限らず、すべての文学の上達のコツはそこにあります。今回のように、一切その詩のテーマとなるものの名称を用いずに作ってみるのもよいかもしれません。
はじめに述べたように、読み手に理解されるように書くことが文学のすべてではありません。しかし、他人が見えていないと自分が見えないように、自分の詩文も客観視できないと、自身の本当の想いも見えてこないのではないでしょうか? 詩人の求める極致とは、その双方の最果てに、しかも同時にあるように思えるのです。
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非蝗非蟋蟀 蝗に非ず 蟋蟀に非ず
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不掠不愁吟 掠めず 愁吟せず
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安閑惟最好 安閑 惟れ最も好し
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搗米綠叢陰 米を搗く 緑叢の陰
五言絶句、平起式、拗体、「吟」「陰」下平声・十二侵の押韻です。
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