漢詩徒然草(39)「颱風跡」


把箒今朝歎息長 箒を把れば 今朝 歎息長し
夜來風雨滿庭荒 夜来の風雨 満庭荒る
石階不掃少時坐 石階 掃わず 少時坐せば
脚下微軀已作行 脚下の微軀 已に行を作す
歎息 … 歎《なげ》いて深いため息をつくこと
夜來 … 昨夜、昨夜からの
滿庭荒 … 庭中が荒れる
石階 … 石の階段
微軀 … 小さな体
行 … 列
梅雨も明け、いよいよ夏本番といったところですが、台風がやって来始めるのも、この時期になります。詩題の「颱風」とは、台風のことですが、これについては、昨年の漢詩徒然草「颱風」をご覧ください。
前回の「颱風」の詩は、台風接近中の不安と緊張、そして、得も言われぬ高揚感が入り交じった独特な情緒について詠みましたが、今回の詩は、台風がひとたび過ぎ去った、その翌日の朝の物語になります。
この朝も、このときにしかない特別な情緒があるのではないでしょうか。それは、脅威が去った安堵感と、その後始末が待っている億劫さという詩情です。
把箒今朝歎息長 箒を把れば 今朝 歎息長し
嵐の夜が明けました。今回の台風も、なんとかやり過ごすことができましたが、むしろ、これからが本番と言えるかもしれません。箒を取り庭へと出ると、予想はできていたとはいえ、思わず深いため息が漏れてしまいます。
夜來風雨滿庭荒 夜来の風雨 満庭荒る
言わずもがな、庭は荒れ放題です。ふと、孟浩然《もうこうねん》の「春曉《しゅんぎょう》」の詩が思い浮かびます。「春曉」は、嵐のあとの庭ということでは、今回と状況を同じくしますが、その心境は大きく異なります。
孟浩然が聞いた風雨の声がどのようなものかはわかりませんが、これからのことを考えると、布団の中にいる孟浩然に「なんとも呑気なものだ」と、悪態をつかずににはいられません。
石階不掃少時坐 石階 掃わず 少時坐せば
脚下微軀已作行 脚下の微軀 已に行を作す
やる気も失せて、庭の前の階段に坐り込んで、しばらく、ぼーっと目の前の光景を眺めています。どれくらい時間が経ったでしょうか。ふと、足元に黒いごま粒のような小さな体が列を作っているのに気が付きます。蟻たちは、すでに仕事を始めていたようです。
「………………。」
大きく一呼吸してから立ち上がり、また、箒を取るのでした。
蟻は、台風のことなど知らないかもしれません。少なくとも、台風のあとの庭の荒れ具合など意に介さないでしょう。もちろん、荒れた庭の掃除をするわけでもありません。雨だったら巣に籠もり、晴れだったら巣を出る。ただそれだけです。
そう考えると、嵐のあとにもせっせと働く蟻が、真の働き者かということには疑問が残ります。その煩わしさを知った上で、それでもそれを厭わず行う意志こそが素晴らしいのですから。郷愁のないものが故郷を知り得ないように、苦心があってこそ、その困難を乗り越える力が身に付くのです。
とはいえ、その姿は私に再び箒を取らせるのに十分でした。蟻たちが何を考えているかは蟻たちにしかわかりませんが、それはそれとして、黙々と働くその小さな身体は、このときの私の心にピッタリと重なったのです。
自らを奮い立たせるのは自分自身。自らに焚《く》べる薪《まき》も自らの心の中にあるはずです。とはいえ、その朝は、その小さな姿にちょっとだけ後押しをしてもらったのでした。
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把箒今朝歎息長 箒を把れば 今朝 歎息長し
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夜來風雨滿庭荒 夜来の風雨 満庭荒る
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石階不掃少時坐 石階 掃わず 少時坐せば
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脚下微軀已作行 脚下の微軀 已に行を作す
仄起式、「長」「荒」「行」下平声・七陽の押韻です。
「行」の韻目には注意が必要です。押韻にあるように、ここでは七陽の韻になります。詳細は辞書を調べてみてください。この「行」の韻は、どのように書かれているでしょうか?
「春曉」孟浩然
「春眠 暁を覚えず」の句を知らないものはいないであろう、孟浩然の絶唱「春曉」です。今回の詩の承句「夜來風雨(夜来の風雨)」もこの「春曉」から拝借しました。
その背景には、宿願叶わなかった宮仕えに対する心情が含まれているとも言われますが、この詩だけはそのような胡乱なことを考慮する必要はないでしょう。素直に心から、漢詩史上に残るこのマスターピースを鑑賞すべきです。
春眠不覺曉 春眠 暁を覚えず
處處聞啼鳥 処々 啼鳥《ていちょう》を聞く
夜來風雨聲 夜来 風雨の声
花落知多少 花 落つること 知んぬ多少ぞ
春の眠りは、夜明けに気付くこともなく、
(布団の中でまどろんでいると、)
庭のところどころで鳥たちの囀る声が聞こえてくる。
そういえば、昨夜はひどい雨風の音だった。
きっと、多くの花が散っていることだろう。
作者はずっと布団の中にいます。ですので、外の庭の情景は作者の想像なのですが、それでいて、嵐の夜と春の朝の庭のようすが読者の脳裏にもしっかりと浮かんできます。作者すら実際に見ていない光景を読者が見ているのです。
しかもそれは、ぼんやりとした寝ぼけ眼《まなこ》の光景として、です。転句で昨夜の回想を経て、結句で今朝への回帰を果たす構成も、効果的に春のまどろみを演出しています。まさに孟浩然の「春眠」の追体験と言えるでしょう。
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