「手放す」ということ

亀山 博一
2021/4/8

生きるって、本当に疲れますね。努力しているのに、勉強も仕事も人間関係も、思い通りにならないことばかり。家に帰っても、何かと面倒で余計に疲れたり。

気休めにスマホを見れば、流れ込んで来る膨大な情報。気が付けばいつの間にか、SNSからの通知がいっぱい。心が安まる暇もありません。

「何をしているのか自分でもわからない」
「ワタシの現在位置ってどこ?」
「いったいどう生きたらいいの?」
「こんな人生に意味はあるの?」

僧侶として多くの方々に接していると、そんなふうにモヤモヤしながら日々を生きている方が、とても多いように思われるのです。

実を言うと、禅に出会う前の私も、そんな若者の一人でした。


人との付き合い方が、わからない。どう生きたらいいのか、わからない。仕事もプライベートも上手く行かず、失敗ばかり。理想の人生とダメダメな現実の、はげしいギャップ。自己嫌悪と自己否定の無限ループ。

求めるものがなにひとつ得られずに焦っていた私は、確かな道を示してくれる「何か」を心の底から希求していました。

そんな私にとって、秋の侘しい夕暮れに佐世保の古びた書店で手にした一冊の本が、「禅」との出会いでした。ページを繰る私の心に彗星のように飛び込んできた道元禅師(*)の短いお言葉が、私の人生を変えたのです。

放てば手にみてり

ハナテバテニミテリ。
「今持っているものを捨てなければ、本当に大事なものは手に入らない」。そんな解説が添えてありました。

出世や恋愛や地位や立場や、複雑な人間関係。自分をがんじがらめにしている雑多なあれこれを、一度ぜんぶ捨ててリセットしてしまえば、もっと素晴らしい生き方を手に入れることができるかもしれない。

禅に救いがあると(勝手に)確信した私は、心から愛していた仕事を辞め、京都のお寺で出家させて頂いたのであります。


さて、その後どうなったかというと…
いまだに、迷走と失敗の繰り返しです(泣)。胸を張れるほどの立派な修行も積んでいません。

しかし、そんな不甲斐ない私でも、修行の世界に入って自分自身と向き合ううちに、大きな心境の変化が訪れました。

出家の機縁となった道元禅師のお言葉は「何かを手放して、もっと大事なものを手に入れる」という意味ではなく、「外に求める心、そのものを手放しなさい」という教えなのだということに、ようやく気付くことができたのです。

「手のひらを開け放ってごらん。大切なものは、最初からそこにあるよ」

そんな声が聞こえたような、ストンと腑に落ちたような気がしました。

幸せ、成功、理想の生活。私たちはいつも、外に向かって様々なものを求めます。この手で何かを掴もうと、一生をかけて必死に求め続けます。すでに手に入れてたものは決して手放すまいと、ギュッと握り締めたままで。

実はこの「求める心」こそ、人間を成長させ、社会を発展させる原動力であると同時に、生きることの根本的な苦しみを生み出す大きな原因だったということに、私はやっと気付かせて頂くことができたのです。


頑張っても頑張ってもダメな時、必死に努力し続けても実らない時、自分自身を否定したり、絶望して自暴自棄になったりする前に、ふにゃっと肩の力を抜いてみましょう。ギュッと握り締めていた手をパーッと開いてみましょう。

手のひらに何が見えますか?

手の中はからっぽです。
でも、そこには私の「手」があります。
最初からあったのに、すっかり忘れていた、大切なもの。

そう。私は今、ここに、生きている。思い通りにはたらいてくれる手や足や身体。そして、それを動かすふしぎな命をいただいて、生かされている。

たとえ、求めるものを得られなかったとしても、手に入れていたもの全てを失ったとしても、何もかも手放したとしても、この身体と命だけは私を見捨てません。私の意志で自由自在に役立てることができるのです。

それなら、今日という一日を、今というひとときを、精一杯生きてみよう!
失敗ばかりでも、不完全でも、別にいいんじゃない?
他人と比べる必要なんかないんじゃない?
それで十分なんじゃない?

私自身、そんなふうに毎日を生きています。色んなことがありますが、それでも結構たのしく暮らしています。


禅は世界を鮮やかに転換します。外の世界を変えるのではなく、自分の心が変化することで、今までと同じ世界が全く違って見える。禅の教えを通して、新鮮な発見や、ダイナミックな驚きに出会うことができるのです。

このささやかなサイトが、皆さんと「禅」との出会いのきっかけとなりますことを、心より願っています。
 


* 道元禅師(1200-1253):鎌倉時代の禅僧。曹洞宗の開祖。福井県の永平寺を創開。


 

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