平常心是れ道〜心が傾くとき

山田 真隆
2021/5/15

禅語を味わう「平常心是れ道」

自分の都合。私たちに必ずあるものです。

「上から目線」なんて醜悪な言葉も、人より常に高く居たい、低いのはイヤだ、という、さらに自分の都合から「自分だけの都合」へ悪化したところから来ているのでしょう。割合新しい言葉ですが、発想の根元は昔からある人間の心の傾きです。

インターネット時代になっても、SNSの「いいね」だって、フォロ ワーだって人より少しでも多い方が良い、と躍起になっている人を見かけます。

高いことを望み、低いことを嘆く、という傾きを私たちはやめません。たとえそれが傾いてバランスを失っている状態になっているとしても。

人間いくらか生きていれば、望んでもその通りになることはなく、嘆いてもそれが改善されないことは分かっているはず。分かっていながらも、自分自身で望んだり嘆いたりして益々心を傾かせるのが私たちの苦しみです。
 

僕の寝てゐる病室はサイコロ型である
サイコロ型であるからサイコロである
サイコロの内部に僕は寝てゐる
僕が寝てゐるその底には
どういふサイコロの目がかくされてゐるか
あゝ このサイコロはイカサマである
きまつた面に重さがかかつてゐる
僕がそこに寝てゐるからである
僕は寝ながらイカサマを成立させてゐる
僕が起きるとイカサマは崩れる
かかる僕には
あゝ
世界がサイコロ型に見える
 

『サイコロ型の世界』 高見順

自分の都合を追及することは、自分の部屋 、ひいては自分が居るこの世界を、自分という重さをかけて傾けて、自分の都合のいい決まった目がいつも出るように欲求する、ということではないでしょうか。

私たちが日々やっているのは、そんなイカサマのような、ごまかした生き方なのかもしれません。

自分の心をごまかさず、少しでも活かそうと思えば、まず心を「平」という高低差の無い、傾かないところに、「常」時置き戻すことを心掛ける必要があります。「平」という字には、私たちの心が何もしないと傾いてバランスを崩してしまうことを警告する意味があるのです。

つまり平常心とは、自分の心を傾いたままにしないということです。私たちの心だって元からいびつに傾いていたいたわけではありません。最初生まれたばかりの頃、傾かず、平らな心で生まれ出てきたはずです。自分の中にある平らな心と向き合ってそこに戻るように心掛ければ、必ずバランスは回復します。
 

僕は今や
サイコロの内部にあつて
サイコロを振らんとする者となつた

詩はこう続きます。

自分という重さで傾き、決まった目しか出ない世界にいて、そのイカサマをやめるには、自分でサイコロを振りなおすということです。目が出たらまた振る。その都度振れば、決まった目に傾くことも、もうありません。

それが平常心ということ。傾きが無くバランスの取れた、私たちが本来持って生まれてきた心。大事にして使っていきたいものです。

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