知恵とサザンと一休さん
皆さんは好きなアーティストっていらっしゃいますか?
私はサザンオールスターズの大ファンでして、中学生の頃からその曲の数々に親しんできました。
50年近いキャリアの中で、数多くのヒット曲、名曲を生み出してきたサザンオールスターズ。
そのボーカリストである桑田佳祐さんが、TBS 系列で放送された『日曜日の初耳学』(令和7年6月15日放送)というテレビ番組で「曲作りで感じること」について、こんなお話をしていました。
(良い曲が生まれる時というのは)何も企んでいない、意図しないものは強いと思うんです。
だから企み始めるとばれちゃうんですよ。
失敗作って、企み始めたときに、ちょっと知恵がつくと時々やらかすんですよ。
純粋無垢で企みが何もないときにはそれなりのものを作ったんだけど。
私はこの「ちょっと知恵がつくと時々やらかすんですよ」と言う言葉に大変興味を覚えました。
と言いますのも禅の世界にも、少し似た言葉があるのです。
「とんちの一休さん」として知られる一休禅師。その一休さんの作とも言われている道歌に、こういうものがあります。
おさな子がしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき
山田無文老師は、その著書『般若心経』(禅文化研究所)のなかで、この歌について次のように解説しています。
「生まれた時の赤子の、あの無心な心が仏の心である。何も思うことのない 、平和な心。明日の飯をどうしようか、明日もお乳がもらえるであろうかなどということは子供は考えはせん。人生の目的は何だなどということも考えはせん。(中略)生まれた時は仏心《ぶっしん》であったのが、だんだんと知恵がつき、金ができるほど、地位ができるほど、仏でなくなってしまう。」
もちろん、生きていく上で知恵分別《ちえふんべつ》を身につけることはとても大切です。
例えば、「これは食べることができる物だ」「これを食べたらお腹を壊す」というように判断する知恵分別がないと、私たちは健康に生きていくことができませんね。
このように、人間は生まれてから後、様々なことを学び、経験し、知恵分別を身につけることによって、自らの命を守り、安全安心な生活が出来るようになるのです。
しかし、その知恵分別にとらわれすぎてしまうと、正しく物事を判断できなくなってしまったり、自らの心を苦しめてしまったり、ということが起こります。
例えば、自らが学んできたことや経験してきたことに固執して物事をみていると、「自分の考えこそが正しい」などと思いこんでしまいます。そんなときに、自分とは異なる考えを見聞きすると、「あいつは間違っている!」などとつい腹を立ててしてしまう。
また、色々なことを考えすぎて頭のなかが混乱し、どうしたら良いかわからなくなってしまう、というようなことも、しばしばありますね。
このように、知恵分別に縛られてしまうと、安らかな「仏の心」とは遠く離れてしまいます。
一休さんが指摘されるとおり、「仏と遠くなるぞ悲しき」という状態になってしまうのです。
冒頭にご紹介した桑田佳祐さんの言葉も、これに通ずるものがあるのではないかと思うのです。
今までの経験から「こうした方が良いに決まっている」「ああいうのはダメだ」、というような知恵分別にとらわれすぎてしまうと、いつの間にかそのとらわれが邪魔をして、柔軟な発想が出来なくなってしまう。こういう事は、私たちの身の回りでもよくありますね。
反対に、とらわれの無い「純粋無垢な心」でひたすら物事に打ち込んでいたら、ふとしたときに素晴らしい発想が生まれた、という経験をお持ちの方も多くいらっしゃると思います。
またそうした時には、たとえ良い成果が出なかったとしても、心は清々しく満たされたものになっているのではないでしょうか。
国民的アーティストと、私のような一般庶民が同じだと言うと、お叱りを受けるかもしれませんね。
しかし、この「知恵分別に縛られすぎてしまうと、色々なものを見失ってしまう」というようなクセは、人間であれば誰もが持っているものなのです。
そしてそれは、お釈迦様の時代からずっと変わらない、人間の悩みの種ではないのかな、と思うのです。





