ぶれない生き方~風鈴の如くに(2)
連載「ぶれない生き方~風鈴の如くに」(全5回)は、何かとぶれないことが尊ばれる現代で、ぶれない生き方の本当の意味を、風鈴のありようをヒントに読み解いていくシリーズです。
第1回はこちらから!
前回は、カメラが撮影する写真をブレさせないために、カメラの本体の一部やレンズの内部が動いているという話をしました。
では、人間がブレない生き方をするために何を動かせばいいかというと、もちろん「心」ということになります。ブレない生き方をするには、心もぶれない方がいいと思われるかもしれませんが、実はその逆なのです。
また、心というものはすぐに動かなくなり、凝り固まってしまうものでもあります。
それは「こころ」の語源からもわかります。
「こりこり《凝り凝り》」が「ころころ」になり「こころ」になった、といわれます。だから昔の人はこころというものは、凝り固まりやすいものだととらえていたようです。
こんな和歌もあります。
仏にも なりかたまるはいらぬもの 石仏《いしぼとけ》らを見るにつけても
有名な一休禅師の歌です。
仏はだれもが尊敬すべき存在です。その仏であっても、いくら立派なことであっても、それに凝り固まってしまっては、身動きが取れず石像のように何のはたらきもできない、ましてや人助けなどはできませんよということです。
この歌の指摘の通り、人間の心は凝り固まりやすいものです。
特に自分がやっていることに自信がある時、自分で正しいと思っている時、うまくいっている時なんかはそうじゃないかと思います。
かの白隠禅師の若い時にもこんな話があります。
ある関所を通行しようと、通行手形の鑑札のために列に並んでいた時のことです。
そこに一人の武家の男が白隠禅師の前に割り込みました。みんな早く行きたいのを我慢して、長い列に並んでいるのに、この武士はなんと不調法な男だ、と口にこそ出しませんが、白隠禅師は憤慨しました。
そんな時、その武士が振り返って白隠禅師を見てこう言ったそうです、「腹が立つか、坊主」と。
白隠禅師はその時、ハッとして気づいたそうです。自分の心の中にある怒りという感情が起こっていることを。
この話も、武士が禅師を怒らせたととらえることもできますが、白隠禅師はそうではないことに気が付いたのです。
あくまで、私たち人間は、環境の影響はあるけれども、自分の心を凝り固めて迷わせてしまうのは、自分だということに気が付かなければなりません。
カメラだったら、手ブレが効かなければ画像がブレて台無しになってしまうように、ブレない生き方をするということは、心までブレなくしてしまってはいけないということです。
(第3回に続く)





