怒りをしずめる心の力

染川 龍船
2025/7/15

人は人生の中で、どんな人であっても、嫌な目に遭ったり、理不尽な思いをすることが必ずあります。そんな時、とっさに沸き上がった激しい怒りから、

「なぜ自分がこんな目に?仕返しをしてやりたい」

と思ったことが、誰しも一度はあるのではないでしょうか。

その怒りのままに、相手を誹謗中傷してしまった、人を傷つけてしまった……。どれほど嫌な思いをしたとしても、怒りに支配されてとった行動は、その人に大きな後悔をもたらすことになります。

とはいえ、理不尽な思いをしたにも関わらず、怒りを我慢するということは、本当に耐えがたく苦しいことです。


お釈迦様のお言葉を集めた『法句経(ダンマパダ)』という経典があり、その中にこのような一節があります。
 

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」

(『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元 訳 岩波文庫)

怨みを覚えるような目に遭ったとしても、それを報復で返すのなら、決して心が安らぐことはない。その怨みを手放してこそ、心の安らぎを得ることが出来る。

お釈迦さまは、怒るようなことがあっても、仕返しするのではなく、その怒りに耐え忍びなさいと言っているのです。しかし、この耐え忍ぶということは、実はただ単に我慢するという意味ではありません。逆説的ですが「自身の心の安らかさに気付くことにより、怒りは自ずからなくなってゆく」ということです。


京都五山《きょうとござん》(*1)の1つに東福寺(*2)というお寺があります。大きな伽藍(*3)や、紅葉の名所として知られる通天橋などが有名なお寺ですが、その住職に安田天山老師(*4)という方がおられました。

安田老師が中学生の頃、縁が合って東福寺の山内《さんない》(*5)にある善慧院《ぜんねいん》に下宿していた時の話です。

ある日、安田少年が学校から帰ると、玄関先で寺の奥さんが怒って待ち構えていて、いきなり、「あんたがお金を盗んだんでしょう!」と怒られました。

訳も分からず理由を尋ねると、ある人から送ってきた為替手形(*6)がなくなっていて、安田少年の部屋を掃除していた時に、同じ金額のお金が見つかったため、お前が犯人だろうということだったのです。

しかし、そのお金は、京都に出てくる時に安田少年の父親が、困った時のためにと工面してくれたものでした。そのことを説明しても、奥さんは全く取り合ってくれません。部屋に戻った少年は悔し涙が止まらす、「どうせ疑われるなら、本当に寺の金を盗んで困らせてやれ」という怒りが起こり、抑え切れなくなってしまいました。

その時、安田少年はふっと祖母のことを思い出しました。

幼い頃、仏壇の前で「仏さまはいつも見てくださっているでな」と口癖のように言っていた祖母。祖母のことを考えているうちに「そうだ本堂に行こう」と思いつき、本堂の本尊さまの前に坐ってお顔を見上げて手を合わせました。

どのくらい、そうしていたでしょうか。ふと、「盗みをしたら祖母や両親を悲しませる。いつか奥さんも分かってくれる時がくる」という思いが頭をよぎります。そうして安田少年は、なんとか仕返ししてやろうという衝動を抑えることが出来ました。

明くる朝、重い足取りでお寺に帰ってくると、玄関にまたもや奥さんの姿が見えました。また叱られるのかとびくびくしていると、奥さんは土間に下りるやいなや、土下座をして「ごめんな。あのお金はあった。私が間違っていた」と涙ながらに許しを請うてきました。

そんなことがあってからか、奥さんの態度はガラッと変わり、ついには安田少年を大学まで出してくれました。

その後、安田少年は出家をして、修行を積んだ後、修行道場の師匠となって、ついには東福寺の管長職(*7)にまでなりました。

安田老師は、その出来事を振り返ってこう言われています。

「あの時、祖母の教えがなかったら、私の人生は全く違うものとなっていただろう。誰の人生にも分かれ道があって、その時、何を拠り所にするかで、人生が地獄にもなるし極楽にもなる。それを考えると本当に有難かった。」


無実の罪を着せられて、その腹いせに「本当に盗みを働こう」と思った、安田少年の怒り狂った心は、本当に地獄そのものだったでしょう。

しかし、「仏さまはいつも見て下さっているでな」という祖母の口癖を思い出し、本尊さまの前で、自身の心と向き合うことで、それが間違いだと気付いたのです。

祖母が言った「仏さま」とは仏壇の中やお寺にある仏像のことではなく、安田少年の中にある「仏さまの心」のことです。

仏さまの心とは、間違いに気付いた時には「本当に自分はこのままで良いのか?」と、自分自身に問いかけてくれる心です。あるいは、自分の行いに正直になれた時には「それでいいんだよ」と背中を押してくれる心です。

安田少年が怒りに耐え、仕返しを思い止まれたのは、自分と向き合った結果、「誰かを悲しませてはいけない」という自らの仏さまの心に気付くことが出来たからに違いありません。

安田老師の言葉にあった人生を極楽にも変える「拠り所」とは、誰にも等しく具わっている「仏さまの心」です。

これを禅宗では「仏心」と呼びます。


理不尽なことが起きた時、私たちはその場の怒りや悲しみから自分を見失い、過った見方でものごとを考えてしまいます。

お釈迦さまの言葉にあった、

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」

とは、怒りを報復で返したいという心こそが地獄であるということです。そして、

「怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」

とは、自らの仏心に気付き、怒りを手放した瞬間こそが極楽であるということです。

人生は理不尽なことの連続で、到底、納得の出来ないことも起こります。もちろん、自分が正しい場合は、そのことをしっかりと主張しなければなりません。しかし、もしそれが受け入れられなかった時、それでも人がなおまっすぐに正しい道を歩むためには、この拠り所となる心が必要なのです。

自身の心の中の安らかさを見つけた時、怒りや怨みは自然と消え去り、人生もまた安らかなものになってゆく……それが、仏教の説く「耐え忍ぶ」ということなのです。




(*1)京都五山:臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。(Wikipedia「京都五山」

(*2)東福寺臨済宗東福寺派大本山・東福寺公式サイト

(*3)伽藍:お寺の様々な建物のこと

(*4)安田天山:東福寺派十五代管長(1909-1994)。室号は指月庵 

(*5)山内:寺院の敷地内や境内のこと。あるいは大寺院の中にある寺院のこと(塔頭《たっちゅう》とも)。

(*6)為替手形Wikipedia「為替手形」

(*7)管長職:その宗派における最高責任者


 

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