「そのまま」とはどういう生き方なのか?

蘆田 太玄
2025/4/15

 

そう機会は多くないかと思いますが、自分自身のやっていることについて、「これで良いのだろうか?」と不安になってしまう状況というのは誰もが経験することだと思います。

「そのままで良いんだよ。」という言葉は、そういった考えすぎてしまうことで余計に不安を抱えてしまう人に対して一度思考をリセットし、安心感を与えてくれる素晴らしい言葉で、自分自身のやっていることが間違いではないという自信を与えてくれる言葉でもあります。

「そのまま」を漢字で書くと「其の儘」です。「儘」には成り行きに任せること、という意味があります。成り行きに身を任せるというと向上を求めず現状維持、という悪い意味でとらえられがちですが、逆にそのままの自分を信じ切れるからこそ、余計なことを考えず向上や努力に躊躇がないともいえます。周囲との関係性に依らず、そのままの自分を信じ、自己を確立して振る舞えることを禅の教えでは「自由自在」といい、大切にしています。



明治-昭和期に活躍した仏教学者の鈴木大拙の言葉に次のようなものがあります。
 

人間以外のものは、いずれも、”そのまま”で存立し、”そのまま”に生きて行く。松は松なりに竹は竹なりに生きて行く。岩は岩なりに、千代に八千代に苔むすまで、”そのまま”に存立している。ただ人間になると、”そのまま”のところに二の足をふむようになった。「これでよいのか、な」と、一歩退いて考え込むようになった。

(中略)

哲学くさくなるかも知れないが、人間は根本的な”そのまま”を忘れ、働かしてはならぬところに分別知を働かして、ありもせぬ苦しみをこしらえて、その中に自分を投げこんだ。
 

鈴木大拙『禅のつれづれ』より

(註:分別知=物事を二元論的に分けて考えること。物事を自分中心の目線から見て自と他というように区別していくこと。)

それが、自分本来のこころであれば、そのままで良いはずなのです。しかし私たちは他と比べてああだ、こうだという余計な考えが生まれるから、そのままであることをためらってしまうのだと大拙は指摘しています。

そのままであれば何も悩むことはないのに、そのままであることを忘れ、あれこれ気を回したり、考えたりする(=分別知を働かせる)から余計に苦しくなってしまうのだ、ということです。この、「そのままでいられない」原因は私たちが余計な分別知を働かせてしまうことにあるということです。



例えばお墓参りにはいわゆる作法と呼ばれるものが存在します。テレビなどでもお彼岸やお盆の時期になると盛んにお墓参りの作法が紹介され、私たちはどこかでそれを常識として受け入れている所があります。

しかし私は、お墓参りの時に一番大切なのは作法や常識ではなく、目の前のご先祖さまや仏さまを想って心静かに拝むことだと思っています。常識にとらわれない自由なこころでご先祖様や仏さまを想うからこそ、「供養がしたい」という思いが自然と湧き上がってくるのだと思いますし、ひいてはそれが拝んでいる人自身のこころも調っていくことに繋がるのです。

そのはずなのに、いざお墓参りの時になると私たちがある意味で「勝手に」思い込んでいる「常識」に縛られ、人の目が気になってそわそわしてしまうという経験は誰しもあるのではないでしょうか。作法を正しく遂行することが気になりすぎて拝むこころがおろそかになってしまえばそれこそ本末転倒です。

先日、とある檀家さんのお母様の法事をお寺でしたときの話です。法事のお供え物には何を用意したら良いでしょうかと事前に聞かれておりまして、一般的なお供え物の具体例(果物・菓子・花など)をお伝えしてありました。

いざ当日になりますとその檀家さんは段ボール箱いっぱいに抱える程のお供え物を持ってきてくださりました。お話を聞いていますと、「母親が最期に食べていた桃、母親の好きだった和菓子屋のまんじゅう、母親の好きだったパン屋の菓子パン……などと考えて色々と購入して詰め込んでいくうちに、このような一抱えもあるお供え物の詰め合わせになってしまったのだ」との事でした。

常識知らずですみませんと少し申し訳なさそうにされていたその檀家さんに、私は、「そんなことはないです、こんなに素晴らしいお供え物はないと思いますよ。きっとお母様も喜んで下さいますね」と声をかけました。檀家さんも安心したようで笑顔が見られました。

「お供え物はこうあるべき」という常識にとらわれず、ただ目の前のお母様のことを思って買い物をされた檀家さんの姿が目に浮かぶようでした。お母様に縁のあるお供え物で囲まれた法事を済ませた後には檀家さんの顔にも安堵の表情が浮かび、「良い法事が出来ました」と御礼を言ってくださいました。常識に縛られなかったからこそ、心からお母様の供養が出来たのだとこちらの方が頭の下がる思いがしたことをよく覚えています。



そのままであるというのは外部からの情報を鵜呑みにすることではありません。自分自身にそのままであるということです。

お墓参りの例で言えば、私たちが墓前にそのままのこころで向き合い、墓前の方を思って手を合わせた時には、私たちのこころは作法がどうとか、常識がどうとかいう思いを超えた所にあるのではないでしょうか。

この方も、お母様への思いにそのままであれたからこそ、常識に縛られない心のこもったお供え物が用意できたのです。自分自身とお母様のご縁ただ一つに思いを馳せて心静かに手を合わせる。それこそが、そのままの自分が活き活きとしている「自由自在」のご供養なのです。

もちろん、お墓参りや法事に限らず何かと情報の多い現代にあって、「そのまま」であることの大切さを考えさせられる機会は、それぞれに多くあるのではないかと思います。あれこれ考え、悩んでしまう中でも「そのままで良いんだ!」と自由自在であることの大切さを忘れないように致しましょう。


 

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