斧と禅
『斧投げ』アックススローイングという競技をご存知でしょうか?
斧を投げる、危険で物騒な競技に思われるかもしれません。しかし、北米では特に盛んな競技で、2028年のアメリカオリンピック競技の一つになる可能性があるそうです。
その始まりは木こりの手遊びからと言われていますが、今日ではスポーツ競技としてルールも整備され、日本にも日本アックススローイング協会(JAAT)があり、競技場も徐々に増えてきています。私の地元の東京下町にも斧投げが練習できる施設があります(THE AXE THROWING BAR 浅草店)。
斧投げは再現性を突き詰めていくスポーツである、と熟練の方に教わりました。この教えから私は斧投げを、一投ごとに変化する自分自身と向き合い、的中のスローイングが再現出来ているか、出来ていないかを斧の刺さり具合で確認するという、自分自身と向き合うスポーツであると捉えています。
斧を持ち、鏡の前で素振りをし、自身のフォームチェックし、実際に投げに行く。練習を重ね、試合に参加し、しっかり負ける。そこでふと思うのです。
「これって何か、意味あるの?」
私自身、斧を投げる事で、スタイリッシュにベニヤを破壊したいわけでもなければ、何か生産的なことをしたいわけでもありません。あるいは人と競い合いたい、高得点を叩き出たいわけでもなく(もちろん、試合をしたりランキングを見れば一喜一憂しますが)、上達を一番の目的としているわけでもないのです。
斧を投げて何になるのか?その答えは、偶然にも同じ「斧」の名を冠する、私が修行をしていた道場の近隣にある「橋」にありました。
私がお世話になった虎渓山修行道場、永保寺《えいほうじ》がある岐阜県多治見市の斧研橋《よきとぎばし》には、二つの伝説があります。
一つ目の伝説です。
永保寺の開創(お寺を開く礎を築くこと)でありました夢窓国師《むそうこくし》が、修行の場を求める旅をしていたところ、川のほとりでなにやら作業に励む一人の老女の姿が目に留まりました。脇目もふらずに仕事に励む老女。どうやら斧を一心に研いでいるようです。
国師が「そんなに必死に研いで、その斧をどうするのか?」と尋ねると、
老女は「針にする」と答えます。
これを聞いた国師は「なんと見上げた心意気の老女がいたものか!」と大変感心して、自分も負けてはいられないと、心持ちも新たに旅路に戻られたということです。
二つ目の伝説です。
請われて京の都に移られる事になった夢窓国師に、永保寺の開山(お寺を開くこと)を任された佛徳禅師《ぶっとくぜんじ》は、修行に励む日々を過ごされていました。しかし、ある時にどうしても心が定まらず、行き詰った禅師は、ふと門を出て町へと出かけました。すると途中、黙々となにやら仕事に励む男の姿が目に留まります。
「そんなに必死になって何をしているのか?」と尋ねると、
「斧を研いでいる」と、その男は答えます。
「研いでどうするのだ?」とさらに尋ねると、
「針にする」と答えました。
これを聞いた仏徳禅師は大変驚き、「この男もこうして仕事に励んでいるというのに、私が心を乱してどうする!」と心打たれ、気持ちを新たにして、前にも増して修行に励まれた、ということです。
上記のお話を読まれて、どう思われたでしょうか?
斧を研いで針にする。無茶苦茶なお話です。「危ない人だな」「出来るわけないだろう」「斧から始めなくていいだろう」「もっと細いものから始めればいいのに」「もっと効率の良いやり方もあるだろう」。そう思うのが私たちの常識です。
しかし、禅の先達は見方が違いました。
老婆も男も両者とも、一見無駄な事をしているとしか思えません。実際、無駄な事をしていると思います。しかし、老婆も男もおそらく斧を針にする事をきっと目的としていないのです。ただひたすらに、自分の精一杯を尽くして、完成しない何かと向き合うという事を行っているのです。
人の心は目的にとらわれると、そこに邪念が生じてしまいます。
「もっといい方法はないか」「これには価値がないんじゃないか」「もっと別のよいものがあるんじゃないか」という迷いが、その対象から目を背《そむ》けさせ、真正面からそれと向き合うということを忘れさせてしまうのです。
そして、それは一番大切な「自分自身と向き合う」ということからも目を背けるという事に他なりません。そのものと向き合う事とは、自分自身と向き合う事。他のものに価値を求めるということは、自分自身を信じきれなくなるということです。
この話を聞いて、私は斧投げを楽しむ自分を肯定出来ました。意味や目的がなくてもいいのだ、と。坐禅と同じく、自らと向き合っていく行い自体が尊いものなのだと。
思い返せば、私もただ「斧を投げる」という事が楽しかっただけなのです。目的や他の何かに意味があるのではなく、この「斧を投げる」という行為そのものに意味があった……。斧を研いで針にするように、ひたすら一心に斧を投げる。ただそれだけでよかったのです。
これは私だけのお話ではありません。ここまでご覧下さった皆様にも是非、お伝えしたい事なのです。
様々なスポーツや趣味に限らず、家事、洗顔や食事など、日常の様々な行い一つ一つに、目的があるのは当然ですが、しかし、それでもなお、その目的から離れ、その行為そのものに打ち込む事が出来たとき、人は打算や余計な思いから離れてその事と真正面から向き合うことが出来ます。
何かに精一杯打ち込み、喜怒哀楽すべて引っくるめて、ありのままの自分で行う事は、それ自体が素晴らしい事なのです。私たちが、楽しいな、悔しいな、嬉しいな、悲しいな、と感じながら、心動かし乗り越えて、ただひたすらに行っていく生き方を、この禅の教えは示してくれているのです。