どっちが本当の私!? ~理想と現実の間で
人生やり直すことができれば……なんて思うことはないでしょうか?
私は会社勤めを経て修行道場に入りましたので、スーツ姿の同年代を見ると、自分もあのままサラリーマンを続けていたら、どうなっていただろうと考えるときがあります。
『無門関』第三十五則に「倩女離魂《せいじょりこん》」という問答があります。
五祖(中国・五祖山に住した法演禅師)は僧に問うて言われた。
「倩女の肉体から魂が抜け去ったという話があるが、
いったいどちらが本物の倩女であるか?」
というものです。
この問答は前置きとして、ある怪談がもとにあります。
あるところに、親に無断で駆け落ちした倩女という娘と王宙という青年がいました。二人は、他郷に渡って夫婦となりましたが、五年が経ったところで、改めて両親に許しを乞うため故郷に戻ります。そのとき、倩女を舟に残して、まず王宙だけが義父のもとへ行き、駆け落ちしたことを詫びました。すると義父は、
「とぼけたことを言うな。倩女は、お前が国を出てからずっと病気で、奥の座敷で一言も物を言わずに寝ておる」
と返します。
「いや、そんなはずない!」
と、驚いた王宙は急いで舟着き場へ戻って倩女を連れて帰って来ます。すると、寝ている方の倩女がむくりと起き上がり、表へ出て、二人の倩女は顔を見合わせるとニッコリ笑って、ピッタリと一つになってしまいました。
という話です。ここで、はじめの五祖法演禅師の、
「では、駆け落ちした倩女と、眠っている倩女、どちらが本物なのか?」
という問いに繋がります。
この問答に登場する二人の倩女とは、禅門での伝統的な解釈によれば、
出ていった倩女は「日常の中で生活している自分」
寝たきりの倩女は「理想的な仏としての本来の自分」
であると言われています。そして、その両者は、一人の中にいる二人の自分を表しているのです。
日常生活の中で、こんなはずじゃなかった、もっと違う人生があったんじゃないか、と自分を取り巻く環境に振り回される自分がいます。一方で、そんなしがらみを超えた理想の自分がいます。人は理想の自分になりたいと願うものですが、しかし、結局は理想は理想のみでは存在できません。現実と理想は必ず同時にあるものです。
そんなふうに考えると、この二人とは、どちらも正真正銘、本当の自分なのだとわかります。どちらが本物かと問う五祖法演禅師は、どちらかに決めつけること自体が迷いなんだと、示してくれているのです。
私の母は一昨年の年末に、脳出血で倒れました。二か月の入院を経て無事に退院できましたが、左半身に麻痺が残る状態です。今もリハビリを続けていますが、その甲斐あって介助なしで生活できるほどには回復しました。
そんな母は毎朝、六時半頃に起きると、洗面所で顔を洗います。うまく動かない左手に右手を添えて水を掬《すく》い、必死にゴシゴシと洗ってます。その姿を見たとき、私は母の逞しさに感動すると同時に、何もしてあげられない自分の不甲斐なさを感じました。
母は、不自由な生活を続けながら、倒れる前の健康だったころを思い出すこともあったでしょう。「もし、この病気にならなかったら……」と考える日も、きっとあったに違いありません。
それでも母は、そんな過去やあり得ない仮定にとらわれることなく、いつも通りでない、いつも通りの生活を逞しく続けています。人生をやり直すなんて考える隙もない、一心に打ち込む姿です。
「今、ここ」をおいて、いつかどこかでという幸せを探し求める私たちですが、病気の私も本当の私。そんな今を生き切る私も本当の私です。物語の最後、倩女は一つになりましたが、倩女は本当は、はじめから一人だったのです。
健康で働ける今、寝たきりの今
愛している今、愛が憎しみに変わる今
微笑んでいる今、腹を立てている今
どの今もかけがえのない私の命の輝きであると気付けたとき、二人の倩女が、手を取り合いニッコリ笑って、ピッタリ一つになったように、本当の自分がそこに現れるのではないでしょうか。