からっぽ~何にも無いから、何でも入る
私が好きな詩に、坂村真民先生の「からっぽ」という詩があります。
「からっぽ」
頭を
からっぽにする
胃を
からっぽにする
心を
からっぽにする
そうすると
はいってくる
すべてのものが
新鮮で
生き生きしている
私たちは、普段から色々なことを学び、経験し、成長しています。こうして得られた知識や経験は自分の力となり、次のステップに進んでいくのに役に立つものです。
一方で、今まで培ってきた知識や経験というものにとらわれすぎて、自由な発想や柔軟な考え方が生まれにくくなることがあります。こうした時、私たちは先に進むことができず悩んだり、自分とは違う考えを持つ人と対立してしまったりします。
だからこそ、真民先生の詩にあるように、「心をからっぽにする」ということを私たちはもっと大切にしていくべきではないか、と思うのです。
世界的な自動車メーカーのひとつ、ホンダ(本田技研工業)を創業した本田宗一郎さんは、新しい技術を開発する際に大切なこととして、次のような言葉を残しています。
「主義とか、専門とか、自分が大切にしているものから一時離れて、心を無にすることだ。この無とは何も持っていないのではなく、持ってはいるのだが、その持ち方が何でも入るという、そういう持ち方をいう。これは仏教の基本であり――本当を言えば人間の基本である。」(*1)
自動車の修理工場からスタートし、戦後はオートバイの製造、そこから自動車の製造へとシフトするなかで、本田さんはたくさんの新しい技術を開発しました。新技術の開発に当たっては、いままで培ってきた知識経験はもちろん必要です。
しかし、その知識経験は時として「これはこうなって当たり前」「ここはこうするべきだ」という凝り固まったものの考え方を生んでしまう、そんな危険性をはらんでいます。そんな状況に陥ると、別の角度からの見方や、新しい発想というものがなかなか浮かんでこなくなってしまいます。
そこで本田さんは「自分が大切にしているものから一時離れて、心を無にすること」が大切である、とおっしゃいました。これは、頭も心もからっぽにして、今まで学んできたことや経験したことにとらわれないようにせよ、ともいえるでしょう。
そして、その「無」とは、「何でも入る」ということだ、と解説されています。これは極めて禅的な発想だな、と思うのです。
禅の世界では、私たちの心は「鏡のようなもの」だとしばしば説かれます。鏡の中はまさに空っぽで、何もありません。しかし何もないから、何でも映すことができるのです。
例えば、きれいな花に鏡を向ければ、その花が鏡に映ります。次に、鏡を月に向ければ月が映ります。そのとき、先に映した花が鏡の中に残ってしまって月が映らない、ということはありませんね。
先に映ったものが邪魔にならない。つまり「何にも無いから、何でも入る」。それが、生まれた時から私たち一人一人がいただいている心の、本来持っている働きというものです。
では、私たちの日常を振り返ってみるとどうでしょうか。
例えば、仕事などで新しい発想が生まれず、行き詰ってしまったときは、今まで「当たり前だ」と思っていたことにとらわれすぎていたのかもしれません。
また、人と対立してしまったときには、「自分が言っていることの方が正しいんだ!」というように自分の考えに固執してしまい、相手の意見などは聞こうともしていなかったのかもしれません。
「あなたが何かにこだわっている」ことで、本来は「からっぽ」である心がいっぱいいっぱいになってしまい、「何でも入る」働きが失われているのかもしれません。
「なんだか物事がうまく行かないなぁ」「最近、人とぶつかってばかりだなぁ」なんて事があったら、少し立ち止まって、自分の心をからっぽにしてみませんか? そうすると、鏡が花を花と映すように、月を月と映すように、あなたの心は“それ”を“そのまま”に映してくれるでしょう。すべてのものが新鮮で生き生きしている、そんなありのままの姿に。
(*1)森政弘.1992.『無分別のすすめ -自在に自分を動かす』(PHP研究所)より引用