今のところは【6】〜庭前の禅文化

山田 真隆
2025/1/15

この連載は、松本市神宮寺様の寺報『山河』に掲載された禅人代表・山田真隆執筆のテキストを、谷川住職のご協力を得て転載したものです。(今回の記事は2024年・新春号に掲載されたものです)


禅文化について

今回は禅文化の話です。

不立文字、教外別伝《ふりゅうもんじ、きょうげべつでん》」という禅の理念があります。

本当の教えというものは、文字に表すことはできず、教典の外に別に伝わっているという理念です。したがって文字を使用せずに、禅を表現しようと試みた成果を総じて「禅文化」と言っています。

禅文化の一つとして水墨画が挙げられますが、ウェブサイト「禅人」には、その水墨画の一分野として達磨図のコンテンツもあります。どうぞ一度ご覧ください。

禅文化と庭

宗祖・臨済禅師の語録『臨済録』の「臨済栽松《りんざいさいしょう》」という話、あくまで私見ですが、禅文化の嚆矢《こうし》だと思います。

臨済禅師が山に松を栽《う》えているのを見て、師の黄檗禅師が「山深いところに松を栽えてどうしようというのだ?」と問いました。臨済禅師は「一つにはお寺の景観として、もう一つには後の人に示すために目印としようと思います。」と答え終わると、鍬で地面を三度打ったといいます。

臨済禅師が言った、後の人のための目印とは、言うまでもなく禅の教え・悟りの目印ということ。それを言葉でもってあれこれと目印にするのではなく、松を栽えるという行為で目印にしています。つまりこれが先述した禅文化にあたるのではないかと考えます。

また松を栽えるもう一つの理由が、お寺の景観とするというのが、平たく言うとこれは庭を造ったということではないかととれます。臨済禅師が松を栽えることで、境内の景観を整え、それを教えの目印としたという、畢竟、庭を造るということも禅文化の一幕であり、それを『臨済録』から知ることができると思います。

庭と言えばご周知のように、神宮寺にも方丈の前に立派な枯山水の庭があります。私が初めて神宮寺に伺ったのは2020年の9月のことでした。その時に庭を拝見しました。しばらく見ていると、谷川和尚から「塀が少し傷んでいるんですよね」という言葉を聞きました。言われなければそれほど気になりませんでしたが、なるほどよく見ると少し傷んでいるように見えました。

そして2023年の10月に再び神宮寺へ伺うことがありました。庭園の塀は見事に修復され、庭自体をさらに美しく見せていました。美しく修復された塀を見て、以前伺ったときのこともまた記憶に蘇ってなつかしく、その時に次の『山河』には庭について書いてみようと思い立った次第です。

庭の二つの目的

一口に庭と言っても、その目的は大きく分けて二つあると言います。

一つは観賞用・遊興用の庭です。通常、庭というとほとんどがこの目的になると思います。日本三名園に代表されるような庭です。松本では松本城(公式ホームページ)の本丸庭園もこれに該当します。自宅に持つ庭もこの目的でしょう。

もう一つは、修行のための庭です。京都の龍安寺(Wikipedia「龍安寺」)にあるような禅寺の枯山水庭園がこれに当たります。つまり神宮寺の方丈庭園もここに含まれます。

観賞用と修行用という二つの目的、この違いは庭のどういうところにあらわれているかというと、その庭に入っていけるかどうかというところです。

観賞用の庭には入ることができます。三名園(Wikipedia「日本三名園」)のどれにも現在では入園料さえ払えば、必ず入って庭の景観を楽しむことができます。

対して、修行目的の庭はどうでしょう。龍安寺や神宮寺の庭の白砂にズカズカと入っていくことはできません。入れないなら、私たちは庭の前に居て庭と向き合うしかありません。その向き合うということがとりもなおさず修行につながります。庭と向き合うことは、前述したようにそこに込められている禅の教えと向き合うこと

そして禅の教えの枢要《すうよう》はおしなべて、自分と向き合うことに他なりません。禅の庭を見る時、私たちは庭と向き合っているのでなく、自分の心と向き合っていることになります。

だから禅寺でも最も修行の中心となる方丈という建物の前に造営してあるのです。

また禅で自分と向き合うというと、坐禅です。となると庭を見るということは、その坐禅と同じ行為をしていることにもなります。

石の中の水

もう一つの違いは、観賞用の庭が、池や川などの水の景観を表現するのに水そのものを使うのに対して、修行目的の庭は枯山水というだけあって、水を表現するのに水そのものを使用しない点です。多くは石や白砂を使い、水を表現していますが、これもやはり自分と向き合うことに結びつきます。

水は、人間が持つ本来の仏心のはたらきの見立てとして、禅では古来より説かれます。皆さんご存じの『白隠禅師坐禅和讃』にも「水と氷の如くにて…」とその見立てを説く一節があります。

そこまで説くのだったら、庭に本物の水を使ったらわかりやすくていいのでは?と思われるでしょう。ですが、ここがまた禅の面白いところ。ひねくれていると言ってもいいかもしれません。

禅語に「鉄樹《てつじゅ》花を開く」(『碧巌録』第四十則・垂示)というものがあります。鉄で出来た、生命感のかけらもない樹木にも花が咲く、という意味で、これは一見仏から程遠いような煩悩まみれの心でも、悟りを開くことができるという比喩です。すると、その比喩はカチカチの石と柔らかな水の関係でもいいのではないでしょうか。

水と似ても似つかない石や砂を使って水を表現することは、水そのものを使って表現するより、向き合う人にとって、人の心の本質を見極める、より高度な修行になるからです。

庭前放談

ここまで書いてきて、そういえばあれも庭が入った言葉だなと思い出したのは、「庭詰め《にわづめ》」です。

庭詰めとは、臨済宗の専門道場で入門を乞う雲水さんがする行いで、道場の玄関にて一日中手をつき頭をつけてお願いします。しかしこの場合の庭は庭園の意味ではなく、玄関の土間を指して言っているので、今回のテーマと直結はしませんが、二十四年前に私が庭詰めしていた時も、自分がそれまでしてきたいろんなことを考えたなという記憶とともに、庭詰めとは道場での本当の修行する前に、自分と向き合わせる時間なのかも知れないなと、ふと思いました。

かの俳人・高浜虚子は、龍安寺の石庭で

 この庭の遅日《ちじつ》の石のいつまでも(『虚子句集』)

と詠んでいます。遅日とは春の季語で、日脚が遅く容易に暮れないという意味の言葉です。虚子もおそらく庭の前に長く坐ってこの句を詠んだでしょう。

石の中にある水、ひいては人の中にある仏を見つけることができたのかはわかりませんが、この句が目前の庭を詠んでいるようで、実は自分の心がそうありたいと詠んでいるものと解釈すると、途端に禅味を帯びて今回の話に結びついてくるように感じます。

時間ができたなら、神宮寺の石庭を、今一度じっくり眺めてみてはいかがでしょうか。

神宮寺 枯山水庭園  (撮影:難波由香)
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