叶わぬ願いこそが本当の願い
「願い」とは何であろうか?
ここでいう「願い」とは、世間一般的な意味のそれではなく、禅的境地である「無心」のそれを指している。
鈴木大拙は、著書『無心ということ』の中で、願いについて時間的視点から解釈を与え「成就することのない永遠の願いこそが本当の願いである」と言っている。これは逆説的であり、非常に面白い表現だ。常識で考えると、成就することのない願いは無意義だからである。
次に大拙は、いわゆる俗世間的な願いとして、
これが衣食住の世界の方からみると、本願(*1)はこんな風の祈りになる。すなわち何か面白いものが観たい、うまいものを食べたい、何か聞きたい、何か手に入れたいという祈りになる。現世利益的祈りと言ってよい。
という例を挙げ、それに対して、
本当の祈りというものは、永遠の祈りなので、いつといって成就するものではない。成就したということになるともはや祈りの生活はやめてしまう。願いは無尽でなくてはならぬ、どこかに留まってはならぬ。
と、説明する。
俗世間的な願いには時間的な制限がある。つまり、その願いが叶ってしまえば、その願いはそこで終わりであり、また次の別の願いが生まれる。その瞬間、前の願いは過去のものとなり、そこに捨て置かれる。
一方、永遠の願いには、文字どおり終わりがない。叶うことのない願いなど意味がないように思えるが、逆に言うと、これは叶う叶わないを超越しているということだ。
願いがあったということは、もともとそこには何かしらの理由や思いというものがあったはずである。願いの成就の過程とは、目的地に向かう旅路のようなものであるが、しかし、目的地に到達することしか意識しないようになると、目的地に到達した瞬間、その出発点や道中にあったものは、どうしても忘れ去られてしまう。
「無心の願い」とは、それを嫌っているのである。ゆえに禅では目的地を設定しない。目的地に到達することよりも、その歩みそのものが重要なのであって、且つ願いとその道程は不可分である。山登りをして頂上に到達したとしても、その道中がなかったことにはならないし、帰りの下山がなくなることもない。
「無心の願い」は、たとえ願いが成就してもその歩みを止めることはない。成就してなお、その願いは自分の中に生き続ける。願いの叶う叶わないを超越するとは、その成就に固執してしまい、人生の本質を見失ってしまうことを忌避することを意味している。これを大拙は「成就することのない永遠の願い」と言うのである。
我々の人生を鑑みてみると、子供から大人になる過程で、高校受験や大学受験を目標に勉強することもあるだろう。では、晴れて受験に合格して入学できたらそれで終わりかというと、もちろん違う。入学のあとの卒業や就職が最終目標かというと、これももちろん違う。
人生とは、終わりのない旅路である。限定的な目的や低い目標は自分の限界を決めてしまう。自分の限界を決めるとそこで成長は止まってしまう。
大拙は続ける。
どうしても手の届かぬところのあるものが祈りなのです。(中略)いくらやっても駄目だから、よそうというような祈りでは、限りある世界でこそ意味あるかもしれぬが駄目なものをくり返しくり返しやる心、その心は実に、弥陀の本願(*2)の世界に生きているものでないとわからぬ。
ここでは、阿弥陀如来の本願になぞらえて、その祈りの世界を説明している。祈りの世界とは、他でもない我々が住むこの世界のことである。永遠の願いを持つことができたのなら、この世界はそのままで極楽浄土となるのである。この極楽浄土とは、そのような人の生き方そのものを表している。
叶うことのない、終わりのない願いこそが本当の願い。
マグロやカツオは常に泳いでいないと、酸欠によって死んでしまう。馬は常に走っていないと、血流が止まって死んでしまう。我々の人生における願いというものもそれと同じなのかもしれない。
(*1,2)本願:1.本来の願い
2.仏が衆生を救うために立てた誓願(仏教語)
※この記事は、令和5年8月に臨済禅・黄檗禅公式サイト「臨黄ネット」に掲載されたものを加筆・修正したものです。