般若心経散策 第二集(3)
「菩提薩婆訶」~悟りよ、幸いあれ!~第3回
「般若心経散策」は、『般若心経』(以下、『心経』)の語句を取り上げて、よく詳しく見ていくコンテンツ。第2集「菩提薩婆訶」の第3回です。
今まで、私たちが普段基準としている自分というものが、いかに危うい物かを見てきました。
それに対処することは「己に任せず」ということに尽きます。言い換えれば自分を基準にするのでは無く、もう一人の自分である菩提《ぼだい》を基準にするということでもあります。
それでは「己に任せず」・自分に依らない、を実践するにはどのような方法があるのでしょうか?
臨済宗大本山・円覚寺管長、横田南嶺老師が「気持ちをこめる」というお話の中で「止まる」ということを言われています。
「私たちの何気ない仕草、一挙手一投足というのは、お檀家さんなどに全部見られているはずです。ですから、お経だけ読めればいいというものではありません。
お経を読むにしても、“今、命あることはどれだけ有り難いことか”という気持ちを持って、それに深い感動をしてしみじみ読むことができるかが肝心要です。
坐禅堂に入るときも、ただ形だけ手を合わせ頭を下げるのではなく、“坐禅をさせていただいて有り難い、どうかよろしくお願い致します”という気持ちを込めて合掌低頭することが大事です。
講座の前に講本(テキスト)をひろげる時も、“この教えをいただいて本当に有り難い”という気持ちがあれば講本を押し戴いた時に手が一瞬止まるはずです。この間が大事なのです。“有り難い”という念があれば、合掌して頭を下げても一瞬止まるはずです。
あるいは食事の時、“このようにお粥をいただけて、本当に有り難い”という気持ちがあれば、手を合わせた時に一時止まる。そこに気持ちが籠もるのです。
規則とか型というのは、形だけ教えたり、覚えたりすればそれでいいというものでは決してありません。“有り難い”という気持ちを込めることが大切なのです。
“有り難い”という思いや念を込めて、ちょっと間を置くこと、一瞬止まって気持ちや念を込めることです。」
(『ある日の法話より・いろはにほへと②』)
この「止まる」ということに、注目しなければなりません。
止まる時、「有り難い」という気持ちも込めなさいと言われていますが、「有り難い」とは「当たり前」と反対の言葉です。ここに「己に任せず」のヒントがあります。
何もかも自分のためにあるのが当たり前と考えれば「己に任す」自分中心なことになります。
対して、動きを止めて「有り難い」と気持ちを込めることは、自分中心の考えを一旦止めるということ。
また「物に任せて己に任せず」と物の視点から自分を見ることは、自分の目の前にある物事もいろんな過程を経て、やっと自分の元にやって来た大切な物事だと感じるための行いになります。
菩提という性質を私たちは持っています。
その性質を働きとして取り出し、日常の何気ない生活の中に本当に「有り難い」と心を働かせることができたとき、「菩提薩婆訶」という言葉が自然に出てくるのだと思います。
そのためには「己に任せず」と勤めていくことです。
(第4回に続く)