般若心経散策 第二集(2)
「菩提薩婆訶」~悟りよ、幸いあれ!~第2回
「般若心経散策」は、『般若心経』(以下、『心経』)の語句を取り上げて、よく詳しく見ていくコンテンツ。第2集「菩提薩婆訶」の第2回です。
前回、「菩提薩婆訶・悟りよ、幸いあれ」という言葉を紐解きました。
そして、そこから菩提という性質は持っているのに、働きとして取り出せていない、という教示があることに言及しました。
その原因とは、私たちが普段から自分の都合よく物事を考える癖がついているからです。
その癖をやめるには、自分の都合というものを、基準として使わないことです。
達磨大師
智者は物に任せて己に任せず、即ち取捨無し
(愚者は己に任せて物に任さず、即ち取捨有り)
(柳田聖山『達磨の語録』三十段)
悟った人は、物に任せて、自己に任せないから、自分の都合で取捨をしない、ということです。
私たちが自分の中の菩提という性質に気づき、その働きを行うには、この言葉の通り「己に任せず」をやっていくしかありません。
( )で示した文には、逆の「己に任せて」とあります。自分の都合に任せて行動している以上は、どうやっても折角の菩提が眠ったままです。
兎に角、現代は、“自分”信仰が盛んです。
現代社会は流動的な社会です。ですから特に戦後は未だに日本人の、誰もが信じる共通の大きな価値観が見つからない状態で時代は流れていっています。
そういった中で、現在主流になりつつあるのは、「自分らしさ」「自分さがし」など個性に執着した価値観です。なんでも自分が中心。それも生まれたときからすぐに、です。
先日、文楽(人形浄瑠璃)の話を聞きました。その中でも人形を操る人形遣いの話です。今では一つの人形を三人で操りますが、その操り方にはすべて型があって、勝手に動かしてはいけない。まずみっちりその型を身につける。しばらくはその型が窮屈で仕方ないそうです。
しかし十年ほどやっていると、その型から外れるのが恐ろしくなる。それでまた十年ほどすると、その型に飽きてくる。その飽きてきた時が、やっとその人の操り方の味が出てくる時期だそうです。それでやっと人形遣いとして一人前だということです。
文楽に限らず、比較的私たちに身近な茶道や華道なども、最初は型どおりにやることを重んじ、自分勝手な振る舞いを禁じています。それは「己に任せず」ということにつながる教えです。
自分の都合になりがちな自分を、改めて見つめ直してみるという一面が、単にお茶を点てるとかお花を生けるということの奥にあるはずです。
私たちが自分の都合で決めているものの最たる物が、幸せという価値観でしょう。その価値観も本当は自分を離れて見なければわからないのではないでしょうか?
私たちが「己に任せて」・自分を基準にして求める幸せの危うさについて、次の詩から見てみましょう。
「クローバー」 吉野弘
“名を聞いただけで思い起こすのは、幸福のシンボルとしての四つ葉のクローバーであろう。葉は小葉三枚が基本なので、幸福のシンボルは残念ながら奇形である。云々”(※)
クローバーについてのこの一文を目にした時/
不意に〈幸福は奇形〉という言葉の組合わせが生じ/
波を起こしてひろがり/私の内部を満たし始めたのである。/
多分、五十歳半ばに達した私の感傷だったのだろう。/
若い時の私だったら/こんな言葉を呟く老人を許しはしなかったろうに。/
ともあれ/若者たちの顰蹙を買いそうなこの言葉/
〈幸福は奇形〉の持つ或る種の真実/それ故に放つにぶい痛みを私は持て余していた。/
若い時、深く心に留めた哲学者三木清の言葉/〈幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか〉/
をなつかしく思い出しながら――。
(※)朝日新聞社刊『吟行版・季寄せ草木花』中の植物学者・本田正次氏の解説文。
この詩を作者の吉野弘さん自身が評しています。
「幸福を求めることが何故、奇形な精神なのだ?という反問に、私自身答えることができません。私にしても、“幸福を追求すること以上の倫理が人間にあり得るだろうか”という三木清の考えを承認している人間です。それにもかかわらず、私は、幸福追求の人間の意志の中に、或るいびつなもの、或るゆがみをおぼえずにはいられないのです。
その一つは、我々が、個人の精神の在りようとしての幸福を求めるというより、他人にはない物や状態を追求する傾きを持つということです。そのことを、精神のゆがみとか病気とか狂気というふうに呼ぶことができるかどうか知りませんが、もし、ゆがみ、病気、狂気と呼ぶなら、その傾きは私自身にも充分あります。他人を出し抜くという志向がないなどとは到底言えません。
幸福を求めるということは、おそらく、人間存在そのものといっていい程、本源的要求なのでしょう。それ故に、無限に見境なく人を誘っていく力であり、同時に、歯止めのきかなくなる力でもある筈です。当然、偏向も伴うでしょう。
その偏向の一つとして、他人と同じ程度であることを不幸のように思うという精神状態も生じ得るでしょう。三つ葉の状態であることを不幸に思い、なんとかして四つ葉でありたいという願望が〈四つ葉のクローバー=幸福のシンボル〉の原型をなしていると言えないでしょうか。そういうことにいらだちをおぼえて〈幸福は奇形〉という考えに固執したようです。」
(吉野弘『詩のすすめ・詩と言葉の通路』詩の森文庫)
誰もが「己に任せて」幸福を求めて生活しています。戦後の日本が復興を遂げたのも、このことがあったからでしょう。それ自体は悪いことではありません。しかし要はバランスの問題です。
「己に任せて」という面が強くなりすぎる、自分信仰が盛んになりすぎること、それを吉野さんは「なんとかして四つ葉でありたいという願望」と言っています。
そんな自分中心とした幸せの願望に対し、警鐘を鳴らしている文章のように私には思えます。
今私たちに必要なのは、やはり「物に任せて己に任せず」という視点によって、求めなくてももう既にある幸福に気づき、そこに感謝していく生活であると感じます。
(第3回に続く)