般若心経散策 第二集(1)
「菩提薩婆訶」~悟りよ、幸いあれ!~第1回
「般若心経散策」は、『般若心経』(以下、『心経』)の語句を取り上げて、よく詳しく見ていくコンテンツです。
第2集は、「菩提薩婆訶」、もう『心経』の終わりあたりの言葉です。
この言葉が含まれる終盤の特徴的な部分は、漢訳されずにそのままにしてあるところです。それは訳することによって、原語の語意が異なって、中国的解釈になるのを避けたためといわれています。
かの玄奘法師がインドに経典を求めて旅立ったのも、まさにその点からで、当時一つの経典に様々な解釈が並び立つ中国で学んでいても仕方がない、インドへ行って正確な経典を学び、持ち帰るしかないと考えたからでした。
中国にもたらされた『心経』を含む『大般若経』は、ほぼ同時代に中国に普及し始めた禅の教義を説くものとして、禅宗において重視されるようになり、それは日本に伝わってからも同様です。ですから『心経』を見ることによって禅を知ることができます。
さて「菩提薩婆訶」、元のサンスクリット語だとこのようになります。
bodhi svāhā・ボーディースゥバーハー。
「ボーディー」は「菩提・ボージー」と漢字に音写され、「スゥバーハー」は「薩婆訶・ソワカ」と音写されました。
異訳を嫌って訳さなかったと言いましたが、現在ではもちろん現代語訳もされています。しかし異訳を嫌ってというだけあって、現在でもこの部分はいろんな訳がされています。
その中でも基本的なものが、「ボーディー」は悟り、「スゥバーハー」は祈祷の成就、完成を示す結び言葉であることから、
悟りよ、幸いあれ。
というものです。『心経』の最後ですので、当然と言えば当然の言葉です。
ですが、この言葉、いささかの疑問が出てきます。
それは、悟りに対して「幸いあれ」と呼び掛けているところです。
仏教でいう幸いとは悟りであったなら、つまり幸い=悟りであれば、わざわざ「幸いあれ」と付け足さなくともいいのではないかと思いますが、どうでしょう?
このような疑義を呈す表現は、このコンテンツの望むところ。
散策のしがいがあるというものです。
その意味を掘り出していくためにも、言葉をもっと丁寧に見ていく必要があります。
まず「菩提」という言葉。「菩提」という言葉は『心経』の中には他に、「菩提薩埵・ぼだいさった」という言葉で出てきます。
「菩提薩埵」を略して「菩薩《ぼさつ》」といいます。菩提・悟りに向かって努力する人という意味で、誰でも発心して人助けに励む人は菩薩だということになります。だから、私たちを示す言葉が、菩提薩埵・つまり菩薩です。
その菩薩という言葉の中に、既に菩提という言葉が含まれている訳です。
だから菩薩である私たちにとって、菩提・悟りというものは、本来非常に親しいものであるはずです。自分の目玉はいくつあるか?指は何本あるか?など自分に具わっているものなら、改めて見直さなくてもわかるように、です。
しかし実感としては、私たちは悟りというものが、どのようなものであるかさっぱりわからない。
この差を作っているものを『心経』中の言葉で指摘するとすれば、「無明」ということになります。
「無明」・明かりが無い、ということです。
明かりが無いとどうなるか?
明かりが無いと、私たちは自分やその周りを見渡すことができません。自分が何処に立っているのか?何処にいるのか?どんな格好をしているのか?何処に進めばいいのか?など、いろんなことが見えない。見えなければわからない。
わからないから気にも留めないのが私たち。悟りという有難いものが具わっていますよ、と説かれても、気にも留めず、目もくれません。
だから先ほどの親しい関係でありながら縁遠く感じるという差を生んでしまう。
心の中には、本来自分を照らす悟りという明かりがあるはずなのに、その明かりを自分で消してしまって「無明」にしているというのが、私たちです。そうなれば、どんなに『心経』が真理を教えていても、私たちには届きません。
「ガラス」 高見順
ガラスが/すきとほるのは/それはガラスの性質であって/ガラスの働きではないが/
性質がそのまま働きに成つてゐるのは/素晴らしいことだ
この詩に読まれている「ガラス」を人間に置き換えてみると、人間が透き通っているのは性質・本来の姿だということになります。菩提・悟りを具えた人間の心は、本来透き通っている、そしてガラスの働きがそうであるように、人間の働きというのも透き通るという性質から来る、そのままに人・物を見るということと言えます。
ですが、私たち人間は、透き通る性質を具えながら、それを働かせないときが往々にしてあります。
透き通ったガラスに自分という色を塗って、何でも自分中心にしか物事は見えないようにしているのかもしれません。
作者の高見順さんも、人間のそういった現状に対して、人間のおのずからの性質が、世の中にそのままにすぐれた働きとして通用したらどんなにいいだろう、という憧れを込めて詩を作られたのかもしれません。
菩提という性質は持っているのに、それを働きとして取り出せていない、持っていても使わなければ宝の持ち腐れということです。
その菩提を使ってどうやって幸いにしていくか、人間一人一人の生き方にかかっている。だから、「幸いあれ」というエール・応援のような表現になっているのではないでしょうか。
(第2回に続く)